Nu blog

いつも考えていること

普通と政治

ベストはないからベター、よりマシな人を見つけて投票しましょう、なんて言われるこの衆院選。端的に言って小選挙区制がどうなんだろう、って気がする。

オセロの白黒が変わるようにその時々の風によって政権交代が可能で、ダイレクトに民意、世論を反映できるのかもしれないが、単純な多数決的な要素が強すぎて、細かな意見を切り捨ててしまっている。さらに言えば単純な多数決でもなく、2014年の衆院選では得票率48%の自民党が76%の議席を得た。ということは、「民意、世論の反映」とは異なる状況が発生し得る(した、またはしている)矛盾を孕んだ制度でもある。

とはいえ、中選挙区制はかつて55年体制の維持に貢献したかもしれないが、90年代には派閥政治による足の引っ張り合いを演出、政治の停滞を招いた。その反省としての小選挙区制であるから、ただ逆戻りするだけが良いことではない。しかし、どんな選挙制度がよいのかはぼくには分からない。

 

さて、政治、選挙に関する下記の記事が話題になって、さらにブログ記事でも補足がなされた。ヨッピーさんの人気って、すごいよなあ。

www.asahi.com

yoppymodel.hatenablog.com

ヨッピーさんの言うことはごくごく自然によく分かる。一緒に話してたら、トントンとテンポよく肯くような内容だ。

特に「野党がだらしない=安倍さんに舐められてるよね」的な見方あたりは、老若男女問わず多く見られる意見だろう。野党には任せられんよね、消去法的に自民党しかないよね、というのがここ数年続く安倍長期政権の根っこである。つまるところ、民主党(当時)政権が作ってしまった負のイメージ、呪縛は解けないでいる。今回の民進党の解党騒ぎはそれに拍車をかけたとしか言いようがない。そんなわけで今回の選挙も与党の勝利は確定しており、後は野党のささやかな趨勢の変化が話題になるだけだろう。

ちなみに民主党政権への評価には2つの側面があると知ったので、リンクを貼っておく。

・否定的な記事。

天災や不運な事件が、日を追うごとに人災に変わり、変わっていかない事によって閉塞感や欲求不満へと変わり、最後には本当に働いたり、求職する現場にいても見える形になって押し寄せてくる。

あの時代は、そういうことがあまりにも多すぎた。

www.tm2501.com

・上記記事のブックマークから、2012年の肯定的な記事。

民主党が無能だったのはない。自公が徹底的に民主党の政策を妨害したのだ。そして、民主党が何もできない状態にさせた上で、「民主党菅直人)は無能だ」というキャンペーンを張ったのだ。

(略)

結局、自分たちの妨害によって民主党政権を立ち往生させながら、「民主党は無能だ」というキャンペーンを張った自民党は、詐欺師の典型だ。詐欺師! 
 そして、この詐欺師にだまされた国民は、「民主党は無能だ」と思い込んだあげく、「ならば自民党に入れ込もう」と思っているわけだ。すっかり詐欺師にだまされている。

openblog.seesaa.net

 

ヨッピーさんの記事でもう一つ気になるところは、以下の部分。

・「黒塗りの高級車」「グリーン車」「赤じゅうたん」なんかは不必要なものだし政治家が「えらくなったぞ!」って勘違いするからやめた方がいい
・庶民と政治家の感覚のずれが政治離れを産む
・だからネットも駆使してもっと庶民の声を拾うべき
・とはいえ政治家の給料減らせとは思ってない

権力に権威は必要か? という議論はそんなに珍しいものではないように思う。むしろ飲み屋で会社内の悪口に一段落ついたおじさん達が言いがちなことですらある。高級車やグリーン車、赤じゅうたんに限らず、「未曾有」が読めるかとかカップラーメンの値段とか人々は政治家に「庶民感覚」「一般常識」を求めがちだ(パッと思いついたのが奇しくも、麻生さんネタばかりになってしまった)。

ヨッピーさんは権威が原因となって「庶民感覚」とのズレが生じており、「普通の人」から政治が離れている、と表現する。

それに、インタビュー中にも書いた通り「庶民感覚からズレてきてる」っていうこともすごく根幹部分の問題だと思っている。「政治」っていうテーマが、どんどん「普通の人達」の手から離れて行っているような気がするからだ。僕が朝日新聞の取材に答えた事に対し、「勉強してから言え」みたいなコメントがばんばんついた事がその典型である。今の政治って、政治が好きな人、詳しい人だけで集まって議論して殴り合って、それによってなんとなく世論が形成されているようにも見えるけど、はっきりいって「普通の人」からすると置いてけぼりも良い所である。だから投票にだって行かない。何かを言っても、「お前には勉強が足りない」って失笑されるから。何度も言うけど、だから投票に行かない。

普通の人達は平日昼間に国会の前でデモなんてできないし、普通の人は政治家に直接陳情したりもしない。言ってしまえば、普通の人はTwitterで政治について語ったりもしない。そういう意味では僕だって決して「普通の人」ではない。

得てして「普通」などという言葉はたとえどれだけ素朴に使われようと疑ってかかるべき。これはヨッピーさんに限ったことではない。「普通」は人によって異なるから、存在しない架空の概念だ、とぼくはそう思っている。これは考え方のクセみたいなものなので、分かる人は分かるだろうし、分からない人もいるんだろうけど、ぼくはそうした前提である。

 

とすると、「普通の人」でない「政治が好きな人、詳しい人」というのは存在しない、となる。

ツイッターなんかで政治家や芸能人、こうしたヨッピーさんの記事のような政治の話題に炎上ぎみに、派手に絡む人は確かにいるだろうけど、その人たちこそむしろ政治に詳しい*1とは言い難いヨッピーさんの言う「普通の人」に近い存在だと思う。

なぜなら、ある問題について詳しくなると、まだ分からないところがあることを知るし、もっと難しいんだと知ることでもあるから、簡単に人に「勉強しろ」などと失笑できなくなるのだから、反対に言えば、失笑できる程度の知識で満足しているその人たちは「政治に詳しい」「政治が好き」というより、ただ考えが足りないだけだ。

もっと満遍なく言えば、「知る」とは「知らないことの多さ」を知ることに他ならないので、「足りるまでの勉強」などという容量の規定された考えなど持てない。

だから、ヨッピーさんの言う「政治に詳しい人」「政治が好きな人」らの議論によって、ヨッピーさんの言う「普通の人」は何も置いてきぼりにならない。むしろ、ヨッピーさんの言う「普通の人」らが、ネット上で戯れているに過ぎない(もちろん、そのことによってヨッピーさんのように「政治ってめんどくさー」と思う人は出てくるから、ネガティブな影響はあるのかもしれない)。

はてブについてるコメントなんかを見ても、「詳しくないなら語るな」みたいな人が大量に居たのだけど、それはたぶんおかしい。「なんか語ってるけどそれ間違ってるからな」ならわかる。「正しくはこうだよ」もわかる。でも「そもそも語るな」っていうのはおかしな話で、詳しくても詳しくなくても語って良いのが政治ってもののはずである。

だから、確かに「詳しくないなら語るな」というのは間違っていて、詳しい人などなかなか存在しないのだ。むしろ、詳しいと思っている人ほど詳しくないかもしれない。とはいえ、だからこそ、「これが正しい」「それは間違ってる」などと断言する人は恐ろしい。詳しくなればなるほど、断言できるはずがない。ましてや他人の考えることに対して。

「詳しくなくても語って良い」という部分だけが燦然ときらめく。

さらに付け加えるならば「語る」だけでなく、私やあなた各々の「普通」的な行為(日々の行動、日々の選択)が政治的な(政治的と言うのが堅苦しいなら「社会的」と言い換えてもよい)影響を与えている。政治に詳しくなくても、生きてるだけで私たちは否応なく政治的(社会的)な存在だ。

 

「野党だらしない」に少し話を戻すと、「小泉政治以降」なのだろうか、「政治とは劇的なもの、ドラマチックなもの、大きな影響力を持ったもの」というファンタジックな妄想がこびりついて取れなくなっているように思う。

「あの人がリーダーになればすごく良くなる!」というそんなカリスマを待ち望んでいるような。
しかし、それはヒトラーを生み出す要因でしかない。

 

民主主義におけるものの決め方は議論を重ねた上での多数決であって、その議論の過程には当然「理」も必要だけど、いわゆる論破ではなく、「情」に寄り添う説得も求められる。

「説得の能力」こそが政治家の本領で、その能力と「権威」はあんまり関係ない。加えて「庶民感覚」もそんなに関係ない。

たとえば安保法制についての議論には権威も庶民感覚も必要ない。理と情がどれだけ一人一人に伝わり納得につながるか、だ。その点で理もなく情もない、とぼくは納得しないわけである。

あるいは経済政策はどうか。経済政策なんて難しくて権威も庶民感覚も通用せん。しかし、それを説明してもらわないと困る。で、アベノミクスなるものはなんとなく分かるような感じがあって、「説得」力があった。全く効果を感じない点を除けば景気は割と良くなってるらしい。

と言うように考えた時、冒頭に戻れば「ベストではなくベターな選択」はどこにあるのか、と言うと過程にしかない。この人ならこの政党なら、説得力がありそうだ、とどこで判断するかは一人一人だ。テレビや新聞やネット、通勤途中に見かけた演説やただの思い込み等、「日々のすべて」が投票行為につながる(棄権も含め)。

投票行為という政治的な行いが、日常であると気づく。「普通」の行いが、政治的な意味・価値を持ち始める瞬間である。

*1:「好き」ではあるかもしれない