izumishiyou's diary

いつも考えていること

音楽に救われるとはー「この山は防風上はあの山より一層重大な役目を果たす」中原中也『芸術論覚え書』

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ずいぶんと前のことになるが、ゴールデンウィークの最終日に六本木でNever Young Beachを聴きに行ったら、彼らの前の演奏がベリーグッドマンというバンドだった。

ぼくは彼らをその時に初めて知ったが、大変に盛り上がっていて、Wikipediaによれば野球選手に人気がある、とのこと。

「音楽に救われたことのある人、手を挙げて!」という旨のMCがあった。

音楽に救われたこと…、あるかなあ。

 

救われるとは、なんだろうか。今の気持ちをより良くしてくれた、ということだろうか。実際に音楽が問題そのものを解決したりはしないだろうから、気持ちに作用する、と考えるのが妥当とすれば、「より良くする」とは、以下の3つに分けられるのではないか。

  • マイナスな気持ちをゼロまたはゼロ以上にしてくれる(救われる)
  • プラスの気持ちをさらにプラスにしてくれる(励まされる)
  • ゼロだった気持ちをプラスにしてくれる(頑張れる)

人の感情を客観的に数値化することはできないが、自分の気持ちとして、今マイナスだな、と感じるいわゆる「負の感情」はある。また、ゼロはニュートラル、プラスは正の感情と言い直せば、自分としては直感的に理解できる。それらを平明な言葉にしたのが括弧内に記載の「救われる」「励まされる」「頑張れる」なわけで、一口に救われると言ってもいくつかの方向性があるのかもしれない。

そう考えてみれば、音楽を聴く生活の中で、ぼく自身、音楽に救われ、励まされ、頑張れと言ってもらったことは多々ある。個人の実感だけでなく、音楽が人を救うこと、励ますこと、頑張ろうと語りかけてくること、そしてその結果異形を達成した人もいれば、自死を踏みとどまった人もいるだろうし、新たに挑戦に一歩踏み出せた人もいるだろう。

 

しかし、もしも「音楽は人の気持ちをより良くする」ためにあるのだとすれば、人は音楽を生活のために利用していることになる。

つまり、「音楽(=非日常)は生活(=日常)に対するカンフル剤」という図式があり、それが作り手にも受け手にも共有されている状態であれば、音楽は生活に従属していることになる。

たとえばPerfumeあ〜ちゃんもライブのMCで「明日からも頑張ろうね」というようなことを言う。

AKBやももクロ等他のアイドルに詳しくないので断じれないが、アイドルはそうした「非日常=ハレ」の役割を積極的に背負い、ファンを「日常=ケ」へ回帰させるものではないか。

現代において、ファンはどれだけライブではしゃごうと翌日9時には会社にいて仕事をしなくちゃならない、かつて盆踊りで踊り狂った次の日に、朝から田んぼを耕したように。

ハレとケの観点から現代におけるアイドルを論じる、なんてことは大学の卒論で掃いて捨てられるほどやられているんだろうが、ビジネスの観点から身も蓋もなく言えば、きちんと労働してもらうことによって定期的な収入を確保させ、余暇に使うお金の多くをこちらに回してね、もちろんその分楽しい時間を提供しますよ、という循環モデルを構築している。

SNSで拡散するだけのお金を落とさない、落とせないファンというのは、(話題作りには役立っても)収益には貢献しない存在だ。アイドル業はシビアなビジネスである。

と、すると、音楽は日常による生産のおこぼれを受け、かろうじて生きている、と捉えることもできる。

アイドルに限らず、現代のミュージシャンは人の余したお金をかき集めている、と冷笑的に断じることもできなくはない。

 

ここでぼくはなんとなく中原中也のことを思った。

なぜいきなり中原中也か、というと、彼は生活と芸術について、とても真摯に向き合ったからだ。

中原中也はその短い人生の中でいくつかの芸術論を書いている。

その中でも特にかっこいい「芸術論覚え書」と言うのがある。有名な初めの一節

『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。

と言うのがある。芸術とは「名辞以前の世界」を表すもの。名辞、とは名付け、とでも言い換えられるだろうか。子供が「あれはワンワン」「あればブーブー」と物を指して言う、それは名辞の世界だ。名付けられない自分の気持ち、名付けられない世界の総体を射抜く表現が芸術であり、そんな言葉を探し求めることが詩である、ということだとぼくは理解している。

さて、「芸術論覚え書」に戻れば、中原中也は生活と芸術を以下のように語る。

比喩的に言えば、太初には「消費」と「供給」は同時的存在だったが、人類はおそらく「食わねばならない」とか「身を防がねばならない」という消極方面のことに先ず走ったので「消費」の方は取り残された。もともと人類史は「背に腹は換えられない」歴史で、取り残された「消費」を回想(リメイン)させるのは芸術である。それで芸術と生活とは、絶対に互いに平行的関係にあるもので、何かのための芸術というようなものはない。
 
芸術というのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である。そこで、生活で敏活な人が芸術で敏活とはいかないし、芸術で敏活な人が生活では頓馬であることもあり得る。いわば芸術とは「樵夫山を見ず」のその樵夫であって、しかも山のことを語れば何かと面白く語れることであり、「あれが『山(名辞)』であの山はこの山よりどうだ」などということが、いわば生活である。まして「この山は防風上はあの山より一層重大な役目を果たす」などというのは明きらかに生活のことである。そこでたとえば、いわゆる問題劇を書いたイプセンだって、自身も言った通り、たしかに「人生(ライフ)のために書いたのではない」のであって、たまたま人生で問題になりがちな素材を用いたに過ぎない。すなわちその素材の上で夢みるという純粋消費作用を営んだに過ぎない。

芸術と生活を並行するものと捉えているが、あくまでも並行であって対立ではない。交わることがないだけだ、と言える。そして「何かのための芸術というようなものはない」と断言し、イプセンの劇も「人生のために書いた」のではなく「たまたま人生で問題になりがちな素材を用いたに過ぎない」と言う。

 

話を音楽に戻して、生活に従属した音楽を「役に立つ音楽」とし、反対に「役に立たない音楽」がある、とする。中原中也が「あの山は防風に役立ってる」と示すことを「明らかに生活のこと」と断じたように。

人が「救われるために」音楽を聴くのであれば、それは「役に立つ音楽」を求めている、とわかる。

楽しい気持ちになりたいなー、と派手な音楽を聴いたら、余計に寂しくなった、なんてこと、ぼくはある。

反対に、ふとした時何気無く音楽を耳にした時や、ライブでいつも聴いている曲の生演奏を聴いた時や、いつも聴いている曲なのになぜかいつも気にしない歌詞に引き込まれる時、そんな時を音楽は普段は「役に立たない」でじっと待っているのではないか。その瞬間、音楽は「役に立つ」のだが、そこに至るまで「役に立たない」でいるのだ。

 

したがって、あるミュージシャン、ある曲が、必ずどちらか一方に傾いているわけではない。山が防風上役立ってることも事実であるし、しかし、同じ山について樵夫が面白く語ることもできる。

一つの物事に多面性がある、ということかと思ったが、そういうわけではない。

山の存在価値を「防風上重要だ」とだけ捉えてしまうことは割に簡単だし、その瞬間、山の存在価値は生活上とても重要になる。しかし、そのことに気がつくまでの間、山の存在価値に誰も気づいてなかった、ということが大切ではないか?

 

その山の「役に立たなさ」を感じ取る能力を私たちは持ちましょう、ということだと思う。

「役に立たない、でも必要」というものの見方ができるようになることで、いつの間にかその役に立たないものが役に立ち始める。

 

冒頭のベリーグッドマンの問いかけにようやく戻る。

救われたくて音楽を聴くのではなく、音楽を聴いていたら救われたことがある。そういう意味なら「音楽に救われたことのある人」として手を挙げられる、と2ヶ月以上かけて、ようやく思えた。

なんともレスポンスの遅い人である。

(画像はエレファントカシマシエレカシは人生丸ごと救うような歌を歌ってくれるなあ、としみじみ思ったので)