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いつも考えていること

日本はもうダメだ論の未来―上野千鶴子の炎上及び後継としての三浦瑠麗

先日の土曜日、2/11は建国記念の日で祝日。

土曜日が休みの自分としては、休日と祝日が重なってしまって、残念だった。

 

その日、上野千鶴子氏のインタビュー記事が炎上した。

上野千鶴子「日本人は多文化共生に耐えられないから移民を入れるのは無理。平等に貧しくなろう」 - Togetterまとめ

論旨は以下の通り。

日本が今目指している人口1億人の維持は無理。

なぜなら、人口を増やすためには2つの方法「自然増=出生率を高める」「社会増=移民を受け入れる」があるが、そのどちらも無理だから。

移民の受け入れは「社会的不公正と抑圧と治安悪化」を招く。一方、門戸を閉ざせば「このままゆっくり衰退していく」。「どちらかを選ぶ分岐点」に今、立っている。

開国しようにも世界の潮流は「排外主義」的。のみならず、トランプ大統領が「アメリカ・ファースト」を唱える前から日本は「ニッポン・オンリー」の国だから、そもそも多文化共生を受け入れられない。

なので、「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。」

NPOによる問題解決のモデルや国会前のデモのような市民社会の広がりは良い兆候だろう。

www.chunichi.co.jp

 

記者がどのように質問し、編集したのか、その意図がくみ取れないのも炎上した理由だろうけれど、つまりは「日本はもうダメだ」論である。その帰結としての「みんな一緒に貧しくなればいい」は古市憲寿氏の影響だろう。

 

この記事の重要なところは「日本がどうダメか」という点であり、日本のダメさとは、移民を受け入れる度量がない癖に、「単一民族神話」や「一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想」に耽って、自分たちで何も選ぼうとせず、座して死を待っている、というところだと指摘している。

このままなら「ゆるやかな衰退」さえ無理。少なくとも「軟着陸」の道筋だけは見出そうよ、といういわば叱咤激励が記事の要旨だとぼくは受け取った。

だから「上野千鶴子は移民は犯罪者だと言っている」などと批判するのはお門違いで、移民による犯罪の増加が見込まれる原因は、「ダメな日本」が生み出し続けている「社会的不公正と抑圧」だ。

現状の制度や偏見を残したまま移民を増やしても、日本に来た移民は不遇をかこつだけだ。社会の一員としてみなされず、労働力の提供のみ期待される「搾取の対象」にしかなり得ない。そんな国に来たい外国人がいるのかよ、って話だ。

日本の今後の移民政策を語る際に、右も左も、

「日本への移民を希望してくれる外国人が世界には数百~数千万人存在するはずである」

みたいな前提で話をするのはいったい何なんでしょうかね。

(略)

日本に移民するとなにか得することがあるのでしょうか?

そもそも「日本の人口規模を維持するための移民受け入れ」って、

「自分たちの数十年に渡る失政のために少子高齢化が回復不可能なレベルにまで進行してしまい、このままでは国家の衰亡が不可避なので、外国人労働者を数百(数千)万人連れてきて働かせて国を支えさせよう」

って話なわけですよね。日本の無策のせいで国が滅ぼうとしているのに、新しい福祉負担要員として外国人を連れてきて働かせて助けてもらおうという。そしていろいろな労働分野もカバーしてもらえばいい、介護をやらせよう、家事労働をやらせよう、危険な肉体労働も…って。これ、移民する人にはどういったメリットがあるんですか?

日本って英語は通じないし、労働環境は劣悪だし、先進国としては賃金が低いし、国民も排他的だし…などといった悪条件が揃っている国ですよ。そればかりか、いまでも中国やベトナムから「日本の技術を学びたい」と希望する若者を騙して連れてきて、とんでもない低賃金の強制労働を課して搾取するという、外国人労働者の人権なんぞまったく無視の国家ですよ。そんな国に、人生を捧げて移住してくれる外国人がそこまでたくさんいると思いますか?

www.from-estonia-with-love.net

 

上野千鶴子氏は諦めている。やる気ゼロだ。「こうすればよくなる」とか「こうすることで流れが変わる」とか、そういう意見はもはやない。というか、散々言ってきた。言ってきたのに、誰も言うことを聞かないのに、さじを投げたらこのバカ騒ぎ。今頃、呆れているんじゃないだろうか。

そこには社会で同じ時代を生きる人々が連帯して、今とは別の、今より良い社会のあり方を構想し、実現に向かって努力していこうと訴えるリーダーシップのようなものはありません。難しいものは難しいというある種の諦念と、全員を救うことはできないから一人一人が自らを救え、という自己責任の陳腐で乾いた掛け声があるだけです。

(略)

移民を受け入れることが難しい。ならばどこをどう変えたらその難しさを緩和できるか。社会民主政党が存在せず国家の再分配機能を強化することが難しい。ならばどこをどう変えたらその難しさを緩和できるか。これらの問いに向き合い続けなければ、上野氏と似たような結論から抜け出すことはできません。

hirokimochizuki.hatenablog.com

 

月氏の言うとおり、今の上野千鶴子氏にリーダーシップなんてない。

そうやって一人の人間が諦めた、と騒ぎ、燃え上っている、ということはまだ「諦めていない」人たちがいる、ということだから、良いことかもしれない。

今、燃え上っている人たちは諦めることなく、理想の社会を語り、実践していかなくてはならない。そういう責務を担うと表明したのと同じだと、そう認識してほしい。

移民受け入れに対する根強い偏見への働きかけや制度の制定はもとより、「単一民族神話」や「一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想」とも戦い、「日本を諦めない」でいただきたい。

ニヒリズムに陥ることなく、新たな未来を描き出せるのは「諦めない」人だけだ。首相や与党のような権力者に「諦めない」などと訳の分からない方向に引きずりまわされるくらいなら、一人一人が「諦めない」と日常生活から戦っていく必要があることは、言うまでもないことだ。

その点、新聞紙上で大声で「諦めちゃった」上野千鶴子氏が叩かれるのは、仕方のないことかもしれない。もう少し、諦めていない感じを演出しないとダメだったのでしょうかね。しかし、これまで、上野千鶴子氏は散々言ってきたのだ。それをなかったことにして、今だけを取り上げて怒るのは筋違いじゃないだろうか?

 

ある種、上野千鶴子氏は引退した、と言える。「諦めちゃった」以上、これから先の発言は長老的なもの、アドバイス的なものにならざるを得ないし、そのことをご本人は承知のことだろうと推察する。

上野千鶴子氏は、鋭く、挑発的で、果敢で、新しい考え方、ものの見方を提示してくれた偉大なキャリアを持って、私たちに影響を与えてくれた。

私たちは上野千鶴子氏の先を乗り越えなければならない、ということだ。知的営為はすべて先人をアップデートすることでで先に進んできた。

そして、上野千鶴子氏を乗り越える「新しいものの見方」を発信する人、いわば後継として、三浦瑠麗氏のスタンスについて考えたい。

三浦瑠麗氏のスタンスに新しい「諦めない」ものの見方があるとぼくは感じているのである。

 

サンデー毎日(2/26)号におけるインタビューで、三浦瑠麗氏のスタンスが分かるかと思う。

東大講師・三浦瑠麗が実践する「リベラルな男と女」 「夫婦のあり方」そして「働き方」... | 毎日新聞出版

サンデー毎日 2017年 2/26 号 [雑誌]

サンデー毎日 2017年 2/26 号 [雑誌]

 

インタビューの冒頭は昨年放送された「朝まで生テレビ!」で辻本清美衆院議員との議論が白熱したことについて聞かれ、「左派も保守も日本社会を象徴する年功序列の仕組みがかっちりあって、現在の主流意見を修正しようとすると、組織内の反動が強い」と指摘するところから始まる。今ある枠組み、というか日本全体に対する挑戦的かつ不穏な批判だ。

三浦瑠麗氏は自身を「リベラル」と標榜している。このリベラルとは、保守とも左派とも異なるもの、と説明する。

自分の信条や生活習慣と全然違う人でも、それを叩いたり、 変えさせたりしようと思わない。それをやるのは、「清く正しく生きろ」と道徳を振りかざす右派

としており、

ただ、私が田舎が好きで、現実主義的で、分配だけでなく経済成長にも関心があるので保守に見えるのでしょう。「自分で着物を着られる」といった文化的な嗜みと、他人のライフスタイルを許容し共感できるかは全く別の問題

と右派をばっさり切る。

一方、左派との違いとして、そもそも左派を「経済的自由を基本的に認めず、エリートによる支配を肯定する人たち」とし、「自由より平等が大事と考え、時に自由に対して敵対的ですら」あると批判する。

この左派に対する印象はぼく自身にも思い当たる節がある。いわば、自分が勝てる土俵を用意して、その世界が実現されれば正しく、その世界のリーダーは自分だ、と夢想しているのが左派なのだ。

その左派と異なり「リベラルは社会の進歩を目指しますので、福祉に対して肯定的です」としており

「政府は時に悪いことをするからあまり信用もできない」と思う人たちです。この点では左派の対極でしょう。

と左派をもバッサリ切る。

いわば、左派は政府を信用しすぎで、右派は政府にいいも悪いも併せ飲ませて都合よく使いすぎ、ということか。

 

この「リベラル」の感覚は誰しもに馴染むようでいて、誰にもまだ馴染めていない感覚ではないかとぼくは思う。

なぜなら、日本にいる人は濃淡はあっても、左派的なところ右派的なところを持ち、両方の軸である「仲間には手厚く、仲間以外には冷淡」に変わりはないからだ。

そのことを三浦瑠麗氏は著書『日本に絶望している人のための政治入門』の中で

ホンモノの保守派、国民の統合とか一体感とかを大切にするはずなのに、自分たちの主張に夢中で多くの国民に違和感を抱かせてこの国に分断を作ってしまっています。ホンモノのリベラル派、真の弱者に寄り添って彼らにこそ自由と自己実現が得られる環境を整備すべきなのに、自分たちの陣地を守ることに汲々とする。それぞれ、たちがあってのこととは思うけれど、ホンモノにだけ備わっている共に苦しむ感覚が足りなくはないかと思ってしまいます。

としている。なお、「共に苦しむ感覚」とは、「Compassion」という三浦瑠麗氏の政治に対する思想であり、「哀れみや思いやりというように、他社の立場にたって感じることではありつつも、寄り添って同情するだけではなく、そのうえで、もう少し大きな全体最適に向けて考えるというか。実践しようとすると、共感というより、もう少し激しくて熱いもの」と説明されている。

三浦瑠麗氏の言う「リベラル」は「仲間も仲間以外も関係ない」フラットな世界で、倫理的に厚くすべき部分を厚く、個人に帰すべき部分は個人に帰す、という世界である。

これまでの日本の政治にフラットな発想はなかったし、今もまだない、と言って良いだろう。視野の公平さ、とでも言おうか。日本の政治の視野は、いつだって近いものが大きく、遠いものが小さく写り、焦点は狭く、ボヤけた後景を気に留めることはない。

一人の人間として、すぐ隣にいる人を大事にすることは大切だ。遠い飢餓より、家族や友人への愛が優先されることに何の問題があろう。

しかし、こと政治においては、遠くの飢餓と家族や友人とを同じピントで、同じ大きさで見つめられなければならないーー無論、飢餓も家族、友人もすべて比喩だ。

そのような目の使われ方、ものの見方がこれから必要だろうし、必然、主流にならなくてはならない。 

 

だから、移民について厚くすべき部分であると思うなら、どうすべきか。三浦瑠麗氏は上野千鶴子案件とは別の文脈ではあるが、インタビューの中で、こう話す。

日本は(略)外国人の入国に際して所得や所持金が十分あるかで差別しています。

(略)

日本は民主国家なんだから、外国人や難民に冷たい制度を変えたいのなら頑張ればいいんです。国内の問題は言わず、アメリカにだけ言うのは問題でしょう。ムスリムを在日朝鮮人に置き換えた時、私は「日本はおそらくアメリカよりまともな政策を取れないだろう」と見ています。

ツイッター上野千鶴子氏を批判するのではなく、「制度を変えたいのなら頑張ればいい」。これが三浦瑠麗氏が描き出す新しいものの見方だ。

つまり、上野千鶴子氏を批判してきた人たちはこれまで頑張ってこなかったのだ。そもそもそのことに上野千鶴子氏は呆れかえり、諦めていたのだ。なのに、今さら、騒ぎ立てている。実に滑稽だ。

しかし、今から頑張ればいい。

 

上野千鶴子氏は「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。だとしたら、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。」と記事で述べていた。

三浦瑠麗氏は著書『日本に絶望~』の中で靖国神社参拝をめぐって「今の社会における論調を見る限り、右から左まで、まるで日本には弱者しかいなかったがごとき状況です。(略)日本は、同時に加害者でもあり被害者でもある兵士や国民の姿と向き合い、その多義性から来るあいまいさに耐えなければならない」と述べた。この態度は、移民に対する態度も同様であり、上記上野千鶴子氏の発言と通ずるものだ。

何にも耐えようとせず、何も引き受ける気がないのなら、現状を追認したこととなる。ぼくも現状を追認したいとは思わない。

「リベラル」の浸透はちょっとやそっとのことではない。日本全体の流れを変えることに他ならないのだから、自分のものの見方から変えていき、時に行動しなくてはならない。

 

ここまで書いて、坂口安吾の『堕落論』が頭に思い浮かんだ。「生きよ堕ちよ」。

三浦瑠麗氏の著書には「絶望」の言葉があり、あとがきにおいて「正しく絶望した後にしか希望は訪れない」と記されている。「正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」という安吾とそっくりではないか。

だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。坂口安吾 堕落論

 

lullymiura.hatenadiary.jp

日本に絶望している人のための政治入門 (文春新書)

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