Nu blog

いつも考えていること

いつか女性らしさが消える日に結婚が趣味になるのだろうと思う

2016年の紅白歌合戦は、星野源の「恋」を期待して観たのですが、NHKの前々からの乗っかり具合から、出演者みんなで踊るくらいの演出があるかと思いきや、司会の相葉雅紀有村架純がちらりと踊って、期待の新垣結衣も恥ずかしがった様子で少し踊った(かわいかった)だけだった。「逃げ恥」にちなんだ演出はさすがになかったかあ…。

 

で。

紅白で変だなあと思ったら、同じように変だと思っていた人がいてくれた吉田沙保里の結婚願望の話。

まず、早い段階で表明された怒りはこちら。

www.komazaki.net

事の詳細は次のブログで見ていただきたい。

2016年のNHK紅白歌合戦。歌手・西野カナさんの歌唱前に、かねてより西野さんのファンを公言しているリオ五輪レスリング女子代表の吉田沙保里さんが、昨年末に結婚を発表したぺこ&りゅうちぇると共に壇上に上がったシーンがあった。
西野さんが紅白歌合戦で歌う『Dear Bride』が結婚ソングであることにちなみ、司会の相葉雅紀さんがりゅうちぇるに「吉田さんはどうしたら結婚できますかね?」と問いかけた。りゅうちぇるは「自分磨きをしているし、女の子らしいからすぐに結婚できると思う。そのままでいいよ」と答えた。

 

吉田沙保里さんが結婚願望を持っている」ということは果たして視聴者にとっての「周知の事実」だっただろうか。紅白歌合戦の視聴率は約40%。普段はバラエティ番組をあまり見ない視聴者も多く、アスリートである吉田沙保里さんしか知らない方も数多く存在するはずだ。件のやり取りの違和感はここにあると思う。もし、「私、結婚したいんですよ」と吉田さんが番組中で改めて意思表示をしていたならば、もしくは、吉田さん自身が「私はどうすれば結婚できると思う?」とりゅうちぇるに尋ねていたならば、「吉田沙保里さんが結婚願望を持っている」という「前提条件」が十分に共有され、問題のあるシーンにはならなかっただろう。これは明らかに台本のミスである。そういう「前提条件」をすっ飛ばして、吉田さんの結婚については部外者同然の相葉さんが「吉田さんはどうしたら結婚できますかね?」と問いかけた。ここに大きな問題があると思う。あたかも相葉さんを無配慮なセクハラ男のように見せてしまったのである。

arsm12sh.hatenablog.jp

 

引用したとおり、相葉雅紀のフリートークに問題があったのではなくて、そもそもの台本がミスっていたんだろうと思う。

「結婚したい」と表明していない人に対して「この人が結婚するにはどうしたいいか」なんてことをネタにしたら、それはまあ、セクハラだ。

しかし、きっとテレビ業界内においては、吉田沙保里の「結婚願望」は世間に広く知られた前提だったから、それを基に組み立てられたセリフを言ったまでの相葉雅紀は可哀想なくらいだ。やっぱり悪いのは台本だろう。

なので、前提を踏まえれば、対するりゅうちぇるの「何もしなくていい」は素敵な言葉のようにも思える。

そういうわけで、もやもやするが、この一連の会話を「社会的な抑圧がどうこう」と断ずることができないでいる。

 

で。

こんな意見をツイッターで見て、さらにもやもや。

女性らしさを抱え込み過ぎて、反発的に他人に「そうあるべきではない」と押し付ける事案はあり得るだろうし、もしそれをされたら鬱陶しいだろう。

でも、昨年末に平愛梨長友佑都の結婚記者会見で平愛梨が「関白宣言に出てくるような女性になりたい」と言っていたのは、やっぱりもやもやする。

それでいいの? って聞きたくなる自分がいる。実際に聞いたとすれば、それは上のツイートで言われる「進歩的」で「ジェンダーの呪縛」に囚われている人、になるのだろうか?

 

でもしかしやっぱり、趣味における「女性らしさ」と結婚における「女性らしさ」はまったく別の話ではないか?

なぜなら、趣味は社会的な抑圧から生じるものではないが、結婚は社会的な抑圧からも生じうる現象だから。

当然、たとえば商売の必要上、ゴルフを趣味としなくちゃならなかった場合、それは抑圧的に生じた趣味かもしれない。あるいは、すべての結婚が社会的な抑圧から生じるものではない。なんてのは当然のこととしても、やっぱり趣味はの多くは誰かに強制されるものじゃないし、現代の日本における結婚には少なくない社会的な抑圧がある。

ここをごっちゃにしてはいけないのではないか?

そのうえで、吉田沙保里が「結婚願望」を口にし、ネタにされなければいけない状況や平愛梨の関白宣言なんかを見てみれば、抑圧が口を開けてみんなを飲み込んでいるような、そんな絵がぼくの脳裏には浮かぶし、女性らしい趣味がどうという話とこれとは別のことのように思える。

 

その上で一つ思いつきを書いておけば、いつか結婚は趣味になればいいのではないか?

子どもがいようといまいと結婚するかどうかは当人らの自由で、というかそもそも結婚は国家に規制されるものでなく、本人らの自称に過ぎない概念になればいい。

その上で

「私今度結婚するんです」って言ったら、進歩的な女性に「女らしさに縛られなくていいのよ」なんて言われて、それがジェンダーの呪縛だと思ってるのはお前の方だろうが!!!って腹立つ

なーんてツイートが出てくれば、ぼくのもやもやも消えるような気がする(新しいもやもやは出てくる気もする)。

念のため書いておくけれど、もちろん結婚の趣味化は、誰かと一緒に生きることを否定するものではない。 

なんて思っていたら、勝部元気が似たようなことを書いていた*1

過渡期にある現時点の日本においては「今すぐ良妻賢母型は一切この世から無くすべきだ」とは言いません。ですが、「良妻賢母型の夫婦にはしばしば人権侵害が発生しやすいものであり、決して賛美されてはいけないものである」と社会的に認知されていることが必要です。メディアが報じる際にも必ずデメリットもセットで伝えるべきでしょう。「ハードSMプレイに興じている夫婦」と同じくらいの位置付けがちょうど良いと思います。

www.excite.co.jp

 

「良妻賢母になりたいです」が「ハードSMプレイに興じている夫婦」くらいの位置づけになればちょうどいい、というのは面白いなーと思う。

つまり、ハードSMに興じているかどうか、なんてなかなか公表しないことだろうし、言われても困惑することだ。

「良妻賢母になりたい」がそれと同じ扱いになるのは、確かにちょうどいい。わざわざそんなこと言うなよ、みたいなくらいの思想になったら、安心して「関白宣言」発言を「そういう人もいるんやねえ」と受け止められる気がする。

 

先にぼくが考えた「結婚の趣味化」をそこに加えれば、もはや結婚するかどうか、結婚したいかどうかも、ハードSMプレイくらい私的領域に属するものとなればいい、のかもしれない。

ハードSMで想像しにくいなら、お菓子作りでもなんでもいい。

わざわざそれを他人に言うかどうかも、それはその人達次第。

たとえばぼくは相撲観戦が趣味だが、それを言う時と言わない時がある。言っても受けが悪そうなら言わないし、受けそうなら言う。そういうものだ。

なんなら、親に隠している趣味があってもいいように、結婚も親に言わなくてもいいのかもしれない。

そうなれば結婚願望を口にしている人は、今の感覚で言うなら「ボルダリングやってみたいんだよねー」とか「一度は国技館行ってみたいんだよねー」とか言いつつ、何年もボルダリングをせず、国技館にも行かない不思議な人、ということになる*2

ぼくがどういう未来を描いているのかと言えば、つまり、「そうあるべき」がない社会なのだ。

「結婚すべき」「良い妻になるべき」「女性らしい趣味を持つべき」という縛りがなければ、「結婚したい」も「夫を支える妻になりたい」も「お菓子作りが趣味」も、そのどれも何ももやもやしない。

今、「そうあるべき」幻想が世間的にも強いから、「結婚したい」「夫を支える妻になりたい」「お菓子作りが趣味」に対して、「女性らしくあるべき」と思わされているんじゃないか、ともやもやするのだ。

その認識なく、「女性らしさに縛られてんのはそっちだろうが、腹立つ」と言っているのを見ると、もやもやが倍化する…。

 

ところで、このことを考えるにあたって、たとえば男性が「妻を支える夫になりたい」と発言したとすれば、どんな反応があるだろうかと想像してみたら、いろいろとすっきりした。

たぶん、今のメディアなら「逆関白宣言」的なことを面白おかしく書きたてるだろうと思う。これはNG。なぜなら、男性はそうあるべきでない、という規範が横たわっているから。

反対に、「ま、そういう人もいるよね」で終わる社会とは、どんなものか。それがつまり、結婚が趣味化した社会なのだろう、とぼくは考える。

 

さて。

2017年もまた、ジェンダーに関する問題がいろいろありそうだ、と不安に思う。

それで年始早々、不吉ながらもミシェル・ウェルベックの「服従」を読み返した。この本は予言の書である。

服従

服従

 

 

もしかすると、いや、もしかしなくとも、人は「そうあるべきだ」に「服従」していた方が楽なのかもしれない。

そんな自分の弱さを見つめてみる。弱さとどう向き合うか?

それは一人一人の問題であり、かつ、社会の問題である。

社会の問題は、それを誰かの責任として追及するのではなく、みんなで我が事として解決するのである。

私たちが「女子力」にもやっとする理由 – ReDEMOS

*1:「いつも一歩遅い」がこのブログの特徴です。

*2:ぼくが「相撲観戦が趣味です」と言うと大抵「一度は国技館に行ってみたい」って言う人が現れるのですが、あれはなんなんですかね。行けばいいのにって感じです。正直、そういう人とは話が広がらないことが多いので、最近は「行きたいなら行くべきですよ」と強めの口調で言っているが、たぶんあの人たちは一生国技館に行かないと思います。宝塚歌劇とかも同様。