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いつも考えていること

胸が痛くて死にそうだ―ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」10話感想

逃げるは恥だが役に立つ」の10話の感想。

平匡目線であらすじを言えば、

ついにみくりと結ばれた平匡。二人の関係はラブラブ。しかし、会社が経営危機になり、平匡はリストラされることに。平匡、それを機に、事実婚ではなく、ちゃんと入籍しようとプロポーズを決意。良いお店を予約して、いざプロポーズ。入籍することで金銭的メリットがあることを説明して、良い返事がもらえるかと思いきや反応悪し。「ぼくのこと好きじゃないんですか?」と懇願してみたら、みくりは「それは好きの搾取です!」と高らかに宣言! 来週どうなる!?

 

白状すれば、この平匡の浮かれ方、身に覚えがある。

 

10代の頃のぼくは、いつも半身欠けているような不安な気持ちでいっぱいだった。

時間は有り余っているのに、何も有意義なことができていないという焦り。

詩人か小説家として名を成したいなんて夢想をしては、自分の才能の無さにうんざりした。

たぶん将来は働かない八割の働きアリとして*1、周囲の目を誤魔化すようなろくでもないサラリーマンになるだろうと絶望していた。

そしてもう一つの絶望は性に関することで、いつか誰かとキスやらセックスやらできるのだろうか、と思うと、生涯ありそうもないことに目の前が真っ暗になった。

高校まで男子校で、大学入学後もニキビはなくならないし、女性とろくに話せない。

女性からの承認を渇望していた。彼女のいる同級生に憎悪を覚えたり、電車で見かけた綺麗な人が、ぼくの存在に気づいてくれないか、などと妄想する。

自分の頭の中にある欲望は仕事と女性の二つしかなく、そのどちらも手に入れられない自分に価値はないように思えた。

 

アイデンティティの確立は青年期の重要な課題だから、そんな悩みも変なことではないと思う。

しかし、悩みの方向性に勘違いがあることは認めないといけない。

自分を自分で肯定しようとせず、他人からの承認を受身で待っていた。

たとえば小説家なり詩人なりにしても、宝くじに当たるように発掘されると期待していたし、女性も、いつか誰かぼくを見つけてくれると夢見ていた。

そういうものじゃなくて、きちんと自分で自分の存在を見つけ出さないといけなかったのに。

 

仕事のことは置いて、男性は女性を獲得することに特別な意味を見出していることについて。

言わば「童貞のうちは発言権なし」とも表せるほど、モテる*2男性を頂点としたヒエラルキーがあるようにぼくには感じられた。

男性同士で話していたとして、「あの女の子、可愛くないな」などと言ったとして*3、「童貞が偉そうなこと言うな」と突っ込まれたら、その後は一日俯いて、何も話せなくなるだろう、というような。

上野千鶴子はこの男性にとっての女性獲得の価値に呆れながらきちんと怒る。

男にとって、「彼女がいる」とは何を意味するのだろう? 学歴がなくても、仕事がなくても、収入がなくても、「彼女さえいれば」、すなわちなぜ「モテ」が他のすべての社会的な要因を上回る男の最後の逆転の位置になるかといえば、「彼女さえいれば」オレは男になれる、からである。

(略)

「彼女がいる」とは、「女をひとり所有する」すなわり文字どおり「所有(モノ)にする」状態をさす。他のすべての要因において欠格であっても、最後の要因、女がひとり自分に所属していることだけで、男が男であるためのミニマムの条件は満たされる。逆に言えば、学歴、職業、収入など他のすべての社会的要因において優越していても、「女ひとりモノにできない」男の値打ちは下がる。(上野千鶴子『女嫌い ニッポンのミソジニー』)

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

10代の頃のぼくは、ご多分に漏れず「男」になりたかった。なので、経験を持った時のぼくの浮かれぶりは目も当てられないものだったと思う。

自分にとっても周囲にとっても残酷な表現をすれば、「おもちゃを与えられた子供」のごとくはしゃいでいた。

つまり、ぼくにとって「女性はおもちゃだった」。

「女遊び」という言葉があるが、程度の差こそあれ(自分がマシと言いたいわけではない)、ぼくが興じていたのは「女遊び」だったのである。

 

書いていて、胸が痛くて死にそうだ。

 

「男になろう」とした10代のぼくをぼくは恥じる。その後20代後半に到るまで、大してぼくの考えは変わらなかった。そのことも恥じる。

個人的なことだが、母がなくなった際、母の人生を振り返った時に、なぜかぼくは上野千鶴子の本に手を伸ばしていた。それからのぼくは、まあ、もう少しいろいろと考えられるようになった、と思いたい。

 

 

平匡には「男性の普通の生き方」への思い込みがあると書いた。

平匡は「男性の普通の生き方」に対する思い込みがある。

「恋愛→就職→結婚→子育て→家を買う→出世…」というような「男性の普通の生き方」。その矢印の中でいかに他の男性より良いようになれるか、という競争が男性の生き方にある。他の人よりかわいい彼女、妻、子ども。他の人よりいい就職先、給料、速い出世、大きな家…。

平匡はその最初の段階である「恋愛」に躓いたことから「結婚」以降を諦めている。仕事でもがつがつしている様子ではない(ただまあ、家事代行を頼んでいるし、いいお家だし、給料は良さそう)。

だから「男性の普通の生き方」ができていない自分の価値を疑っている。

平匡はイケメンで、人当たりの良い風見に対してコンプレックスを抱いており、「ぼくはあなたとは違う」と言う。「恋愛に躓いている男性は人間的価値が低い」と思い込んでいる平匡の象徴的なシーンだろう。

izumishiyou.hatenablog.com

10話を見て、この読み解き方には有効性があるようにぼくには思えた。

平匡はみくりという女性を所有したことにより、「一人前の男」に昇格したと思い込んだ。

自分にも「普通の生き方」が開けた、「男になれた」と感じていたと思える。餃子を包めるようになったことを「できないと思っていたことでも、やってみたら案外できるのかもしれない」と象徴的に思うのは、その表れだろう。

プロポーズにおいて、入籍することの経済的合理性を語ったり、リストラされたことを報告せず一人で転職先を探したり、「一人前の男」として、みくりを扶養しようとしていることの表れではないだろうか。

 

特にリストラされたことを報告しなかった背景には、男性に特有の「弱さを見せてはいけない」という規範が平匡に強く意識されたからのように思えた*4

「男は強くなくてはいけない」「男ならば困難に立ち向かうべきだ」「男なら壁にぶつかっても一人で乗り越える必要がある」。そして誠実であるがために、「男らしく」しようと努めていますから、周囲に心配かけまいと自分ひとりで悩み続けるのです。

家族も同僚も、こうしたタイプの男性が追いつめられていても、気がつくことができません。生真面目な男性は、どのような状況でも、普段通りに行動しようと努めているからです。

「男らしくしなければならない」というプレッシャーが心理的な負担になると同時に、彼らが追い込まれている事態を隠しているという複雑な状況があるのです。そして、あまりにも精神的に困難な状況が続けば、うつ病になる危険性があるとテレンス・リアルは警告しています。

仕事の悩みにせよ、家庭の問題にせよ、誰にも打ち明けず解決できるはずはありません。仕事は組織で動くものですし、家庭だって家族みんなで作り上げていくものです。一人で抱え込むことは、自分にとってもまわりの人にとってもいい結果を招きません。(田中俊之『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』)

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

 

また、みくりが自分の「所有した女」になった途端、平匡のコミュニケーション能力が著しく落ち込んだのも特筆すべきだ。

レストランのデートも「デートで気をつけるべき100のこと」みたいなサイトを検索せず、「この女は自分のものだから、喜ばせようとすれば喜ぶはず」だと自信満々。実際には、ドレスコードのある店へノーネクタイで行き、みくりにも何も伝えずカジュアルな服を「似合ってますよ」なんてなおざりに褒めて、店内の他のお客さんの格好からしてみれば、どうやら浮いているのに…。

「女を所有」した男性の滑稽さを描き出していて、過去の自分を思い出し、心臓が勝手にえぐりでてきてしまいそうになった。

それまで、ずっと、「相手が何を考えているのか」を考え合うのが、このドラマの素敵なところだったのに、突然それを停滞させる脚本の秀逸さよ…。

 

みくりは「愛情の搾取」に気付く。

何かあるわけもない風間さんの家での家事代行を辞めてほしいと言われ素直に辞めたり、業務時間と業務時間外に境目がなくなったりしていた時は、一瞬愛情の罠にはまりかけていたようにも思える*5が、商店街での「やりがい搾取」の論理との同一性を感じ、「愛情の搾取」にたどり着く。

なんだかんだで「搾取されることも含めて、結婚」「搾取されることも含めて、愛情」という考えは本当に根強い。もっと正確に言うなら、その考えはたいてい非常にロマネスクな色のペンキで分厚く上塗りされているがゆえに、多くの人は「搾取」を見抜けない。気づくのは、ロマネスクなペンキが剥げ落ちる頃で、その頃にはもう遅すぎるわけですよ。

www.lovepiececlub.com

男女問わず「大人になる」「一人前になる」ことはすなわち「我慢する」「犠牲になる」といった感覚に結び付いている。これははっきり言って奇妙だ。

なぜ「大人は我慢しなければならない」のか、「自分を犠牲にできて初めて一人前」なのか。

「私は我慢しない」「私は犠牲にならない」。でも「大人」だし、自分の食い扶持は稼いでいるから「一人前」だ。なんなら他人に認められなくたって構わない。そう声を大にして言いたい。

 

ちなみにツイッターで「好きの搾取なんて、計算高い言い方で、愛情を損得勘定で計っている」というような意見を見た。

女性の反撃に狼狽える男性を間近で見たような、得も言われない感覚であり、搾取する側の無邪気さに心が痛む。

 

さて、来週の最終回が、どんな結論になるか、予想とまではいわないが上述したように「我慢しない」「犠牲にならない」結論であってほしいと思う。そのためなら二人が結ばれなくたって、構わない。ま、たぶん、ただ離れ離れになる、ということはないだろうけど。

本当に楽しみ。ぜひ「夫婦をこえて」いってほしい。

 

ところで、序盤に書いた学生時代、ぼくの友人らも女性に縁なく過ごしていた。

といっても、ぼくと違い、彼らは大して女性と関わらなきゃならないとか、そういう男性的強迫観念はなく、「このままでいいやん」と泰然としていた。

「自分から女性を獲得する気はないが、自分に惹かれるような奇特な人がいればやぶさかではない」というような。

こう泰然としていられるのは男性だからで、孤独死は怖くとも「一人で生まれたんやから一人で死ぬやろ」と(経済的に)一人で生きられるゆえに諦められる。

前半の平匡のようだ。

男性と女性の差を思う。男性が泰然としている一方で、少なくない女性が「(経済的に)一人では生きられない」という危機を抱えて、多大なリソースを割いて「永久就職」を目指しているかもしれないことを。

 

*1:パレートの法則https://ja.m.wikipedia.org/wiki/パレートの法則

*2:モテをどう定義するかは難しい。

*3:そういう発言をしちゃうから童貞なのだろう…。

*4:データベーススペシャリストなどの資格を持っており、かなりの高給取りであることを考慮すれば、もしかすると仕事に対する自信が強い、という側面もあるだろうが、そうした自信がさらに「弱みを見せられない」意識へと結びついているかもしれない

*5:白いセーターでナポリタンを作っていることを「狂気」と評している記事があったが、言い得て妙である→http://hiko1985.hatenablog.com/entry/2016/12/14/145305