ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を熱心に見ている。「問題のあるレストラン」と同じくらい熱心だ。
「問題のあるレストラン」と少し違うのは、友人と「火曜が楽しみで仕方がない」などと話せるところだ。
「問題の~」は、ツイッターで同じような考え方の人たちにぐさりと突き刺さっていて、それを見て一人のたうち回っていた。その反面、対面で話す友人、会社の同期なんかで見ている人は少なかった。
それに比して、「逃げ恥」は周囲も見ていて、それはつまり男性も見ているということで、この差は大きい。
今さら逃げ恥のことを書くのか、という感じもあるが、ぼくは時機を逸するタイプなのでそれ自体は別にどう思われてもかまわない。
それよりも、原作から接していた人は、ドラマ化されたことによって取り上げられるようになった現状に対して「原作には目もくれなかったくせに、今さらこの作品を引いて社会の変化とか語るなよな」と思っているんじゃないかと思う。
そういう意見もあるのだろうけれど、けれど、ドラマになり、耳目をより多く集めたことで、大衆作品として時代のものとなっているわけだから、2016年のものとして語っていい、とも思う。
つまり、作品が語るメッセージが、原作とドラマとで大きな差がないにしても、社会がどう受容したか=ドラマになったことによってより広く知られ、語られた、という点は、とても大切だと思うし、反対に、海野なつみは2012年時点でこの作品を書き始めていることから、作家論的にはその時点が重要なものとなると思うが、それはぼくは知らない。
さて、この物語のおもしろさは「思い込みが打ち破られる」ことにあると思う。
思い込み。
新垣結衣演じるみくりも星野源演じる平匡も、それぞれその人生で様々な思い込み――「こうでないとダメだ」という固まったモノの見方――をしてきている。
みくりには「人は大学を出て就職し、社会に役立たねばならない」という思い込みがある。
そうした思い込みの反面として現実の自分は、就職活動に失敗し、大学院を出たものの派遣社員の職しかなく、それすらも契約を切られてしまう。そして、そんな自分に不甲斐なさを感じ、自身の価値を疑っている。
お金や仕事を「自分の市場価値=社会にいていい承認」と捉えられることは、かなり普通のこととなった。
たとえば山崎ナオコーラはそうした考えを持つ主人公をよく設定していたし、津村記久子も仕事と自分の存在価値との関係を現代の文脈で捉え直した作家だと思う。
ぼくは、この「自分に市場価値があること=社会にいていい理由」という考え方の源泉に――ただ社会が豊かになり、働くことに衣食住の安定以外の意味見出した、というだけでなく――「就活神話」があると考えている。
就活には神話がある。就職活動ではなく、就活と略されてからの時代の神話。
その神話とは、「本当の私には価値がある」というもので、「オンリーワン、オリジナルな私」神話とも言える。
概略的に説明すれば、男女雇用機会均等法施行以降、それまで不平等がまかり通っていた就職活動が建前上、平等なものとして扱われることとなった。
とはいえ、上野千鶴子の言うとおり、「総合職」「一般職」と職種を分けて、男女の別を分けていたので、ほとんど意味はなかったのだが*1。
とにもかくにも、選考に当たって、男性であることや大学名が市場価値を決めるのではなく、「能力」を見るものとされた。
しかし、総合職の面接を受けたとしても、大したことのできるわけでもない学生たちのどんぐりの背比べだから、印象のいい人が選ばれる曖昧な基準にすぎない。
なぜ隣のあいつが受かって、私が落ちるのか。明確な落選理由を教えられない学生は「自分に非があるのではないか」「本当の私をアピールできていないのではないか」などと暗中模索し、「自分さがし」「自己分析」が始まる。ちなみに、選考側にしても、はっきりとした当選/落選理由はないのだけれど…。
ぼくが就活をした2011年も自己分析は必須のもので、「絶対内定」シリーズという徹底した自己分析を求める本があった。この本はほとんど中身を変えず毎年、年号だけアップデートされて出版されている。
ちなみにこの本は1994年から出版されているそうだ。なお、著書の杉村太郎は2011年、急逝したが、その後も彼の名前は使われたまま、年号を更新し、出版され続けている。
なんだか、まさに神話のような感じがする。
就活から発生してきた「自己分析」「自分探し」が就活神話を作り上げていく。
「自己分析」「自分探し」は何を探すのかと言えば「本当の私」を探すものだ。
しかし、「本当の私」は今ここにいる私以外いない。どこかに本当の私がいるわけない。にもかかわらず、面接に落とされた学生たちは迷宮に入り込み、仕舞いにはインドだとかの海外に行く。
海外に行ったからと言って「本当の私」が見つかるわけでもないが、とりあえず面接で「海外に行った」とアピールして、海外に言った程度の人はごまんといるから、大抵は落ちる。
落ちるということは「本当の私」が見つかっていないということだから、もう一度自分探しにインドに行かないといけなくなる。何周すれば「本当の私」が見つかるのか、もはやわけがわからない。
海外に行かないにしても、やたらと幼少期の自分を振り返って、「私の好きなもの・こと」を限定して、「〜業界じゃないとダメ!」などと言い出して、全滅したりする。
つまるところ求めているのは内定という「結果」でしかないのに、その「手段」である自分探しがいつのまにやら目的にすり替わる。
見つからないから、どんどん「本当の私」の価値が高まり、素晴らしいものなのではないか、と期待だけがインフレする。
なので、内定を得た人は「自分を探せた人」として、とんでもなく優秀な人のように扱われる。実際はたまたま受かっただけなのだ。中身は大差ないのである…。
こうした就活における無駄な努力の構造は学校という教育装置がその一端を担っている。
なぜなら、学校は努力と成功に因果関係があることを刷り込む教育装置で、努力なき成功に罰則を与えたり、成功なき努力は無意味とされ、あらゆる手段で「努力→成功」の図式を生徒たちに刷り込み、社会的に必要なものとして擁護する。
このこと自体が即就活に結び付くわけではない。単に、近代社会における民主主義・資本主義において、「努力と成功」は社会秩序を守るにあたって大切にしなければならないものなのだ。成功なき努力は果実がなく経済成長を停滞させるし、努力なき成功が許されると公平な競争が阻害され、やはり経済を停滞させる。
そして、その「努力と成功」は、就活においては「自己分析という努力」と「内定という成功」として表現される。だから、自己分析を百点満点でできた人は内定を得られる、という妄想がまかり通るのだ。
「努力と成功」「本当の私」という就活神話は、就活においてだけでなく、「自己責任」「自己選択」「優勝劣敗」として社会の隅々まで行き渡っている。
今の社会には「私」が溢れかえっている。「私」が努力し、「私」が選択し、「私」が決め、「私」に報いがある。それらが「本当の私」によってなされるよう、「私」は「私」を見つけなければならない。「私」を見つけられなかった「私」は愚かなため、職にもつけず、一段下の人間として生きていくしかない。
周囲の環境によっては、努力が難しいことや選択できないこともある、という当たり前のことを無視し、ひたすら「私」にこだわる。今の社会にはそんな強迫観念が横行している。
そもそも、社会の秩序を守るためとはいえ、「努力と成功」のワンセットが妄想だ。
なぜなら、資本主義的「成功」はたまたまでしかないからだ。努力だけでない運や環境の要素の方が強い。
古市憲寿や宇野常寛が過去に使ったことのある言葉だが、この社会は「クソゲー」だ。
環境の整った人は努力が何倍にもなって報われるが、多くの凡夫の努力は搾取の対象か、あるいは空しき浪費と化す。学校は、社会をクソゲーだと教えない点で、大変な罪があると思う。そのせいで、「本当の私」とか「自己責任」だとかいう内向きで自傷的な発想が一般的なものとして扱われてしまっている。もっと「どうにもならない私」や「社会が悪い」ということが当たり前に言えるようになってほしい。
そうでないと、「社会はクソゲー」ではなく「人生はクソゲー」だと思ってしまったまま、そのニヒリズムはルサンチマンを抱えて、マジョリティの思想となり、果ては現状肯定へと流れてしまう。「社会はクソゲー」だと思えばこそ、ニヒリズムは反体制=今の社会を変える思想として屹立するのに。
長々と書いてしまったが、就活神話=「社会に必要とされる私=本当の私」神話がみくりにもある、とぼくは考える。
真野恵里菜演じるやっさんは、過去、できちゃった結婚をした時、みくりに「下に見られている」ように感じたと言う(第9話)。
それはみくりの中にある「社会に必要とされなきゃダメだ」という「偏見」の発露であったと言える。
一方、平匡は自分には家族を作れない、プロの独身として生きるしかないと決め込んでいる。
みくりの抱える「思い込み」が仕事にまつわることならば、平匡の抱える「思い込み」はジェンダーという文化的な規範にかかるものだ。
平匡は九州出身で、家庭内で権力を持つ父親とそれを支える母親という昭和的家族で育ったようで、父親のことを苦手に思っている様子が描写される。
平匡は「男性の普通の生き方」に対する思い込みがある。
「恋愛→就職→結婚→子育て→家を買う→出世…」というような「男性の普通の生き方」。その矢印の中でいかに他の男性より良いようになれるか、という競争が男性の生き方にある。他の人よりかわいい彼女、妻、子ども。他の人よりいい就職先、給料、速い出世、大きな家…。
平匡はその最初の段階である「恋愛」に躓いたことから「結婚」以降を諦めている。仕事でもがつがつしている様子ではない(ただまあ、家事代行を頼んでいるし、いいお家だし、給料は良さそう)。
だから「男性の普通の生き方」ができていない自分の価値を疑っている。
平匡はイケメンで、人当たりの良い風見に対してコンプレックスを抱いており、「ぼくはあなたとは違う」と言う。「恋愛に躓いている男性は人間的価値が低い」と思い込んでいる平匡の象徴的なシーンだろう。
下記の記事ではそうした「普通の生き方」ができていない男性は概して見栄を張ろうと人を見下したり、偉そうにしたり、妙なアピールをするものだと一刀両断しつつ、そうでない平匡のことを「女子の妄想」と指摘しているあたり、面白い。そうなんである。平匡は自分の能力を低いと思っているのだが、実際には相手のことを思いやれて、コミュニケーション能力が高いのだ。「結婚できない男」の阿部寛とは違う。
人って、コンプレックスやプライドを隠そうとすると、つい相手を見下した発言をしてしまうもの。自分をアピールしようとして、まわりに文句を言ったり、自分の話ばっかりしてしまったり。でも平匡さんは、女性慣れしてなくてワタワタしてるけど、女やみくりを見下したりはしません。
というようなことを考えると、それまで目立って客体になったことがなかった平匡さんが、見た目や行動に粗相がなくて、チャーミングで魅力的だなんて、もう奇跡ですよ。女性経験がないことはコンプレックスみたいだけど、深くつき合うまではそんなそぶりも見せないし、「お前、なんでいままで誰もいなかったの?」と胸ぐら掴んで聞いてみたいです。
まあ、ウブですれてないのがいいだなんて、おじさんの処女信仰みたいなものでしょうか。不器用男子は若い女性には受けないかもしれないですね。
その点、平匡という存在はどことなく非現実的に見えて、論じにくい。
が、しかし、結婚したと言った途端、「どんな人か」「かわいいのか」と騒がれ、新婚旅行の夜が心配と言えば滋養強壮の飲み物を持たされ、子どもはまだか、家を買うのかとかまびすしく話しかけられるあたりは、男性が用意された「普通の生き方」を一つ一つクリアしていくように義務付けられている様を思わされる。
「こうじゃないとダメ」という思い込みが、自分を縛り付けて、「不幸」を呼び寄せる。
しかし、その「思い込み」が「契約結婚」という制度的に予定されていない、また通常の生き方に想定されていない関係性によって、ばらばらと解かれていく。
つまり、みくりの「役に立たなければ社会に認められない」という思い込みも平匡の「普通に生きなければならない」という思い込みも、どちらも契約結婚によって、ただの思い込みだったことが暴かれて、その上で二人の間に新たな関係が生まれていく。
今を生きる私達がまさしく抱えている思い込みと、その鮮やかな解決が、本作の面白さで、だからここまで受け入れられたのだと思う。
みくりと平匡だけでなく、石田ゆり子演じる伯母のゆりにまつわるエピソードも素敵だ。
50歳を目前にした働く女性の苦闘。
推察するにゆりの就職時期は1990年頃で、男女雇用機会均等法以降、バブル期~バブル崩壊という世代かと思う。また、その仕事は失われた20年、低成長時代真っただ中で、成果を上げることが難しかっただろうことは想像に難くない。そればかりでなく、周囲の総合職女性は産休、育休で戦線離脱を余儀なくされ、同世代の男性の方が常に一歩先に出世していく。その上、男性は結婚も子どもも手に入れているが、自分は独身。結婚して、子どもを産んでいれば、今のポストはない。
「ひとりで生きるのが怖いっていう若い女の子たちが『ほらあの人がいるじゃない、けっこう楽しそうよ』って思えたら、少しは安心できるでしょ。だから私はかっこよく生きなきゃって思うのよ。」という第九話でのセリフは、ロールモデルになるための孤独な、そして社会的な戦いをしてきた同じ境遇の女性の生き方そのものだ。
そうした女性をエンパワーメントするはずの化粧品会社が、自身の価値を否定するくだりは、資生堂のことをトレースしたかのようだった。
土岐麻子の「Gift〜あなたはマドンナ〜」の歌詞を引用したい。資生堂のエリクシール シュペリエルというスキンケアブランドのCMソングである。
あなたって不思議だわ あなたっていくつなの?
ありのままでいたら愛されないと 思い込んでいた
私のイメージをほどいてくれた 彼女は誰なの?
自然なまでに姿に出る 私達の生き方は
泣いている横顔も 真剣な眼差しも
ありのままでいても愛されている あなたを見てると
完璧をめざして生きることより 幸せに見える
悲しみも 喜びも 傷ついた過去さえも
時を重ねて 磨かれてゆく 奇跡を信じてる
現代に生きる私達へのメッセージが散りばめられていて、みんなが少しずつそれを受け取っていればいいなあと、忘年会でタバコをふかし、騒ぎ、二次会に行くおじさんたちの背中を見ながら、そう思った。たとえドラマを見ていなくても、ドラマを見た人が代われば、ちょっとずつ周囲に伝わっていくはずだ。
ちなみに恋ダンスがほぼほぼ踊れるようになった。とても良い曲です。
【公式】再生回数6500万超!!「恋ダンス」フルver.+第10話予告 12/13(火)『逃げるは恥だが役に立つ』【TBS】