Nu blog

いつも考えていること

モランディと野十郎ー世界と遊ぶ、静かな反抗心

ジョルジョ・モランディと高島野十郎という二人の画家に最近、惹きつけられて止まないでいる。

展覧会を観に行くまで、その名前すら知らなかった画家だったけれど、観てしまったら忘れられない存在になった。
 
ジョルジョ・モランディ。
1890年、イタリア・ボローニャに生まれ、1964年に没するまでの間、ボローニャと避暑地・グリッツァーナから出ることはほとんどなかった。
描いた絵の多くは静物画。それも机の上に瓶や木片といったさしたる特徴のない置物をいくつかを並べ、瓶や木片の組み合わせや角度を少しずつ変えたものばかり。
大きなサイズの作品は全くなく、そのどれもが小さな部屋に飾れるようなもの。一目見」ば、全体と細部がつかめる。
展覧会において、遠目にはほとんど同じにしか見えない静物画が淡々と並んでいる様は、奇妙と言ってもよいほどである。
モランディと同じく1890年、福岡県に生まれる。東京帝大農学部水産学科に進学、首席で卒業するも、筆で生きる道を志す。
ヨーロッパに旅立ち、画家として修行するが、作品が残るのみでその留学経験についての体験談の類は一切ない。
福岡、東京と住まいを移し、千葉に一人暮らす。ほとんど人との交流のない隠遁と言われるような、自給自足の生活だったと言う。
各地を放浪しながら画業を続け、1975年、老人ホームにてその生涯を閉じる。
野十郎、「野獣」を想起させる名前にもかかわらず、作品に荒々しさは皆無だ。
また、作品のサイズにも野心などは感じられず、もっとも大きな作品でさえ、90×130センチというサイズである。その作品も睡蓮を描いた静かな風景である。
ロウソクだけを描いた作品を人へのプレゼントにたくさん描いた。月や太陽もたくさん描き、じっと見つめた末に闇だけ、光だけになった作品もある。
モランディ同様、同じような作品が並ぶ展示室は不思議な空間であった。
奇しくも二人とも1890年生まれ、20世紀前半を生きた。
世界史を齧らずとも、二人の生きた半世紀が激動の時代であったことは周知のことだろう。
第一次世界大戦のうちに20代を過ごし、30代には世界恐慌、40代で第二次世界大戦を経験したわけだ。
そして、イタリアにせよ、日本にせよ、第二次世界大戦では敗戦国となった。敗戦後の国がどうなるのか、自分の暮らしはどうなるのか、様々な不安が世間を覆ったことだろう。
配偶者も子供もいない二人であるが、二度の大戦によって、親族や友人、知人には戦死した人もいるはずだ。
一年ごとに、あれがあり、これがあった時代である。
 
芸術の観点からも、1880年代の印象派を超え、様々な潮流が息をつかせぬスピードで現れては消えた。
思いつく限りでも、後期印象派フォーヴィズム未来派ダダイズムシュルレアリスムアール・ヌーボーアール・デコ……。挙げきれぬほどの運動があり、主張があった。名を残さぬものも数知れないだろう。
戦後、さらに文化は爛熟し、抽象主義やアンフォルメルといった新しい流れも出てくるが、それらを知ることはあっただろうか。
 
二人と同じ年に生まれた人には、ホー・チミン、ド・ゴールといった政治家がいる。時代を感じる名前だ。
また、エゴン・シーレマン・レイといったそれぞれウィーン分離派シュルレアリスムの中核を担った存在もいる。
前後何年かを見ても、時代を動かした人たちが多くいる。
 
社会、芸術の動き、ニュースは、どれだけ世間から離れていても目に入ったことだろう。
しかし、二人の作品からそうした時代に対する反応は見えない。
無論、モランディは一時期未来派との接触があったそうだし、セザンヌの影響も明白だ。
また、高島野十郎ゴッホゴーギャンといった後期印象派表現主義の影響が見られなくはない。
無縁ではないが、属してはいない。芸術運動に対してのみならず、時代や社会に対しても「無縁ではないが、属してはいない」、そう感じさせる。
人に影響された、というよりも、それがちょうどよかったので取り入れた、とでも言うような、ある種の傲慢ささえ感じる。
ーー「人間と遊ぶ暇なんてないよ。俺は世界と遊ぶのに忙しいんだ」と嘯くような、不思議な傲慢さ。静かな反抗心。
 
僕は二人の絵を見たとき、この人たちは「世界と遊」んでいたんだな、と感じた。自分のためとか他人のためとか、お金のためとか成功のためとか、そういう目的なく「生まれ出てしまったのだから、戯れをやせん」と歌うように。
正直に、真剣に、好奇心が深まるのを怖がらずに止めることなく、ひたすら追究する手段としての絵画だったのではないだろうか。
 
モランディのように、ほとんど同じ対象を少しずつ角度を変えて描くなんて、他人からしたら何が楽しいのかさっぱり分からないであろうことが、明らかに本人は楽しんでいて、絵を通じてそのことがこちらに伝わってしまう。
尽きることのない愉悦、生まれてきた意味の極致ではないか。
うらやましい。
 高島野十郎にしても、芸を極める目的に他者や人間の存在が見えない。神や仏といった超越者との対話、とぼくには思える。そのことだけに注力したのではないか。
 
感動とは、驚きのことだとぼくは思っている。
何も技巧の素晴らしさだけが感動を生むのではない。むしろ、上手すぎれば上手すぎるほど、つまらなくなることもある。
人生を余すことなく用いること、それもまた驚き、感動を呼び起こす。
人生全部使って、やりきることのその力強さたるや。モランディと野十郎の一生を思うと、怖くなる。自分には何かできないだろうか、もっとやりたいこと、やれることがないだろうか、と。
 
武者小路実篤の『人生論』なんかを読んでいる気にもなる。
生きることを見つめて、死に向かう。
そういう心持ちで毎日を、一瞬一瞬を生きる。

人生論・愛について (新潮文庫)

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このブログを書きながら、ぼくの頭の中では、Durutti Columnというバンドの歌が思い浮かんでいた。
静かなのに、どことなく反抗的な音がしないだろうか。
こういう音の中、生きていきたいと思う。