New Orderのライブに行った。
「ああ」とため息が出て、それだけだ。
それ以上も以下もない。
初めて聴いた18歳から8年か。辛い時、嫌な時、何かしなきゃいけないのに何もできなかった時、何もする気にならなかった時、飲み会の帰りのひとりぼっちの時間、通学通勤のうんざりとした気持ちの時、何の理由もなく落ち込んでいた時、ただ日々が過ぎていくのを手を拱いて見ているしかなかった時、これまで何度となくぼくを支えてくれたニューオーダーがそこにいた。
噂通りの歌唱力のなさ、なんとも言い難い演奏。曲間の変な間合いやステージ上での振る舞い(なんなんだ、バーニーのあのぼよんとしたジャンプは…)、クオリティの高い映像はステージ上から目をそらすためか…? なにもかもが、かっこいいとは言えないのに、奏でられる音楽の美しきこと。
「ああ」と長く長く嘆息し、酸欠で倒れてしまいそうだった。
29年ぶりの単独公演。ぼくが生まれる前のことだ。
初老と思しき男女も少なくなかった。ニューオーダーを聴いて20年、30年の人がたくさんいらっしゃるわけだ。
帰り道に聞こえてくるのは「膝が痛い」「腰が痛い」「動けない」「体がついていかない」。言っていることとは裏腹に満足げな声がどこかおかしい。
そんな激しいライブじゃなかった。若いバンドやアイドルのように「みんなついてこい!」みたいなこともなく、各自思い思いに体を揺らしているようなライブだった。
過去の名曲(Regret、Bizzare Love Triangle、True Faith、Temptation、Blue Monday、Love will tear us apart...)が流れ始めた時に「うおおおっ・・・!」と歓声が場内を揺らし、皆が大声で歌うのが最大の盛り上がりだった。
それはとても、とても盛り上がっていた、と補足しておきたい。しーんとしていたわけじゃない。確かにライブのパフォーマンスとしては、大したものじゃないのだけれど、そうじゃない価値がニューオーダーにはある。もっと、一人一人のパーソナルな思いを高ぶらせる、そういう盛り上がり方。
たぶん、あそこにいた一人一人が、一曲一曲を聴きながら、その曲との思い出やその時過ごした時間、風景、感覚を思い起こして、心のざわめきは頂点に達していただろう。
過ぎ去った、もう戻らない日々のことを思い、これからも続くであろうクソつまらない日々のことを憎む。そんな日常をひっくるめて、ニューオーダーはぼくの心を慰めてくれる。
ニューオーダーを聴きながらぼくは、いつのまにやら何かを失ってしまったことを感じる。子どもの頃、何の憂いもなく遊びまわった感覚か、友達と意気投合して何時間でも一緒にいられた感覚か、何かとにかくとんでもないものを失って、今の自分は抜け殻でしかないような気がしてくる。
ニューオーダーは、ま、そんなもんでしょ、と言ってくれている気がする。どーしたもんかね、と一緒にもたついてくれる。
ニューオーダーの歌はどれも、ペラペラの音で、泣かせるメロディで、てれんてれんとつかみどころがない。楽曲としての分析がぼくにはできないのだけれど、そのペラペラな音とメロディとつかみどころのなさのコンビネーションが、絶妙にぼくの心をとらえて離さない。
歌詞も大抵同じようなものなのに、ぼくの心をつかむ。
「Age of concent」では
「And I'm not the kind that likes to tell you / Just what I want to do / I'm not the kind that needs to tell you / I've lost you...」
「ぼくは君の言うような人じゃなかったんだ、したいことをしてただけで、必要とされるような人じゃなかったんだ。だから君はもういないのか…」と嘆きまくる。ダメな人すぎる*1。
↓若くてやけに苛立ち気味。
代表曲「Blue Monday」でも
「And I thought I was mistaken / And I thought I heard you speak / Tell me how do I feel / Tell me now how should I feel / Now I stand here waiting...」と歌う。「ぼくは何か間違ったのかと君の言葉を思い出す。何を感じればいいのかわからない、どう感じるべきか教えて欲しい。ぼくはここで待っているばかり…」と戸惑ってばかりで、自分がどうすべきかすら人に聞く始末だ。
「Perfect Kiss」では
「I have always thought about / Staying here and going out / Tonight I should have stayed at home / Playing with my pleasure zone / He has always been so strange / I'd often thought he was deranged / Pretending not to see his gun / I said let's go out and have some fun / I know you know / We believe in a land of love / I know you know / We believe in a land of love」
「いつも留まるか行くか考えてる。今日は家にいて、1人で遊んでいればよかった。あいつはいつも変で、頭おかしいと思ってた。あいつの銃を見ないふりして、どっか行って遊ぼうぜなんて言った。みんな、愛の国にいるって信じてる。信じてるだけだってみんな知ってる…」。なんと暗い歌詞だろう…。
↓やけに緊張感漂うPV。
最高に格好いい曲の一つである「Bizarre Love Triangle」では
「Every time I see you falling / I get down on my knees and pray / I'm waiting for that final moment / You say the words that I can't say」
「いつも君が落ちてくのを見て、ぼくは膝を折って祈ってる。最後の時が来るのを待ってる、ぼくに言えないことを君が言ってしまう、その時を。」最後の時を待つ感覚はニューオーダーの特徴だと思う。
↓バーニーが変な踊りをするライブ映像。
ぼくの一番好きな「Temptation」にも最後の時が表れる。
「And I've never seen anyone quite like you before / No, I've never met anyone quite like you before / Bolts from above hurt the people down below / People in this world, we have no place to go / Oh, it's the last time」
「君みたいな人、初めて会った。本当に。君みたいな人、会ったことなかった。雷が落ちてみんな倒れて、どこにも行くところなんてない。ああ、これが、最後の時なんだな…」
↓美しさ溢れるMV。
新曲でライブのラストを飾った「Superheated」も最後の時を待つ人の歌だ。
「Sometimes I wake up when I'm alone / As angry as hell because you're gone / You want your life back, girl I'm not a thief / You told me that it's over and that you were gonna leave / Now that it's over / It's over, it's over, it's over」
「ひとりぼっちで起きたら、地獄みたいに君が言ってしまったことを怒るんだ。君は君の人生に戻る。ぼくに盗まれたかのように。もう終わり、と君が言う。終わり、終わり、終わり、終わり…」
誤訳でも構わない。ぼくはこれらの歌詞をそう捉えてる。間違ってるのは教えてほしいけど、とりあえずこう捉えてる。
まったくひどい歌詞だ。どれもこれも同じで、どれもこれも絶望感たっぷりだ。
ニューオーダーには、そうした絶望感がよく似合う。
それを思うと、上記の歌詞全て、女の子にフラれた男の歌ではなくて、大切な親友を失った人間の歌なのだ。
「ぼくは何か間違っていたかな」と女の子にフラれた理由を聞いているのではなく、自死した友へ語りかけているのだと思うと、こみ上げてくるものがある。生き残った人たちにできることを、懸命にやっているのだと感じる。
まるで、戦後の現代詩を牽引した鮎川信夫のようだ。
たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
遠い昨日・・・・・・
ぼくらは暗い酒場のいすのうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代――
活字の置き換えや神様ごっこ――
「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて・・・・・・
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立ち会う者もなかった
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
男同士の友情を賛美したいのではない。普遍的に「大切な人」を失うこと、失う怖さのこと、ニューオーダーはそれを表すイコンに、奇しくもなってしまったのだ。
今生きている人は、老人も若者も赤ん坊も、皆生き残り、死に損ないでしかない。たまたま生かされたにすぎない。
先の大戦をくぐり抜けた現代は、一人一人にこの認識を要求する過酷な世界なのだ。
その認識を措いて生きる人は、少なからず失われたものへの視座が欠けている、と言わざるをえない。
ニューオーダーは、仲間の死によって、生き残ってしまった、という感覚を持たざるをえなかった。
しかし、同時に、ま、そんなもんなんでしょ、とある種開き直ってもいるのがおかしい。
諦め、ともまた違うような。いや、諦めか。諦めの語源は「明らか」と聞いたことがある。明らかに、死んだ人は戻ってこない。このある種の冷めた感覚を、「諦め」と呼んでもいいのかもしれない。
諦めてダンスミュージックを極め、開き直って自身もクラブで遊びまくる。絶望という泥から輝く蓮の花が咲いたかのようでもある。
諦めは先には進まない。
どーしたもんなのか分からんねえと、もたつくだけだ。
何も生み出さないこと、先に進めないこと、滞ること、かつてあったものを取り戻そうとしないこと。
それらは成長とは真逆かもしれないが、あり得る一つの選択だ。
ニューオーダーは奇跡的に、その選択にはまった人たちが生み出したバンドなのだ。
不思議な人たち。でも、どこかぼくのようで、あなたのような人。
これからもぼくは、ニューオーダーを聴いて茫漠とした思いを抱くだろう。
失ったものは戻ってこない。それを取り戻そうと思わないために。
↓forever joy division
*1:今回のライブでは演奏されていない