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izumishiyou’s diary

いつも考えていること

役立たずの思想

「日本すごい」系のテレビ番組や雑誌の特集、書籍が増えている、と言われている。

実感としては、確かに増えていると思うけれど、本当に増えているのか、と言われるとデータ的なものを見たことがないので、なんとも。

新しくオープンした「東急プラザ銀座」に行ったら、7階のフロア全体が「FIND JAPAN MARKET」と題されて「日本大特集」状態だった。やけにハイテクなものが置いてあったかと思えば、浮世絵モチーフ的なものが溢れかえっていたり、「日本」ってなんなんや、と混乱する売り場だった。

とか言いながら、NHKの特設コーナーで「びじゅチューン」の「樹下鳥獣図屏風事件」のiPhoneケースがあったので、買った。かわいい。

 

百貨店でも、大体8階とか9階あたりの食器とかが多く置かれているところに行くと、「日本」コーナーが設けられていて、前までこんなのあったっけ?と思ったりする。

「日本すごい」の流れが小売業にもあるのか。

 

テレビ番組にせよ出版業界にせよ小売業にせよ、視聴率なり売り上げなりに繋がらなければ撤退するだけのことなので、そういう「日本すごい」系の流れは一定の数字を持っているのだろうと思う。

小売業では海外からの観光客の購買力を頼みにしているところもあるのだろう。もはや輸出産業みたいな感じか。

テレビ番組や出版業界がターゲットにしているのは基本的に日本語話者なので、自画自賛、というか自縄自縛というか。「謙虚なところがすごい!」なんて言おうもんなら自家撞着も甚だしいことになる。

 

音楽業界にも「日本すごい」傾向がある様子なのが気になった。

ちょっと前から、きゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりばんばん」や「ふりそでーしょん」には和物*1の傾向があって、気になっていた。

亀田音楽専門学校」というNHKの番組では、「ヨナ抜き音階」という日本固有の音階がJ-POPの中で見られるようになっているとの指摘があった。

Wikipedia等を参照すると、上記「にんじゃりばんばん」も「ヨナ抜き音階」だし「つけまつける」やPerfumeの「レーザービーム」や「Cling Cling」もそうだとか。サカナクションの「夜の踊り子」もサビはそうではないらしいが、頭の部分なんかはヨナ抜き音階らしい。PVも和物だしなぁ。

坂本九の「上を向いて歩こう」や松任谷由実の「春よ、来い」もヨナ抜き音階らしいが、現代の電子音の中でもヨナ抜き音階という日本的音階があるのはとても面白い。

ちなみにYMOの「ライディーン」もヨナ抜き音階がベースとなっているらしい。

電子音というか、ダンスミュージックとヨナ抜き音階の相性の良さ、というのはJ-POPにおける一つのトレンドなわけである。

このトレンド自体は「日本すごい」という流れよりも、マーケットにおける消費者の好みであって、ミュージシャンがわざわざ「日本らしさ」を求めたわけではないだろうとは思う。

 

この間テレビを観ていたら「三代目J Soul Brothers」にもそんな傾向がある様子だ。

日本的傾向よりも前に、耳に入ってきた歌詞の「イキイキ」というのに、「!?」と衝撃を受けたが、それは置いておいて。

にしても、「イキイキ」って、きゃりーぱみゅぱみゅでも歌ったことのない歌詞だよなあ。「イキイキ」…?

そういうのも気になっちゃって、わざわざPVを見たら、これです。

youtu.be

羽織りやタンス、兜や花札、日本的モチーフがどうだ、どうだと言わんばかりに散らされている。

にしても「イキイキ feel so alive」って…。

 

ちょっと話はそれるんですが、三代目J Soul Brothersのヒット曲で、ぼくですら聞いたことのある「R.Y.U.S.E.I.」なんですが、何度歌詞を読んでも、どうしてタイトルにピリオドが一文字ずつ入るのか理解できないのと、メロディーに対して「字余り」な歌詞が多いことがとても気になる。

一行目の「鮮やかにひとつひとつ」のところからいきなり字余りで、すぐ後の「七つの流星」の「七つの」も字余り。

ここで言う、「字余り」は、メロディーに対して文字が一音多いことを言っていて、聞いてもらえば分かるのですが、「ひとつひとつ」であれば真ん中の「つ」の音を短く発音して無理矢理入れ込めているし、「七つの」も「つ」の音を縮めて発音している。

ぼくの耳には不思議に聞こえる。

極めつけはサビのあたりの「人生一度きり DREAM 掴みたいから今」の部分なんか、カラオケするの大変そうである。その後にある「駆けるほうき星が」という部分も字余りが過ぎる。

そもそもなぜこれほど「9音節」にこだわっているのか分からない。「人生一度きり」も「掴みたいから今」も「駆けるほうき星が」も9音節で、五音七音を基本とする日本語の語感にまず合っていないと思う。余るにしても八音での余りならここまで気にならないのではないだろうか。

歌詞というのもいろいろ作り方があると思うが、こうまで口ずさみにくいのは、なんなんだろうかと訝しく思う。

 

閑話休題

今さらWikipediaを見てみたら、J Soul BrothersのJはjapaneseのJなのか。和物を好んでもおかしくない。

その割に骸骨とかは西洋っぽいよな、と思っていたら、今Bunkamura でやっている「俺たちの国芳、わたしの国貞」展で、江戸時代の歌舞伎者も骸骨モチーフを用いていたことを知ったので、J Soul Brothersのあのロゴもそういう「歌舞伎者」的な日本の伝統を意識しているのかもしれない。

www.ntv.co.jp

 

三代目J Soul BrothersEXILEの一派なわけで、「ヤンキー文化」を体現しているのだろう、と勝手に捉えている。

「ヤンキー文化」と曖昧に使うのは良くないが、かといってわざわざ斎藤環の著書を引っ張り出すほどのやる気もないから、Wikipediaに頼っちゃおう。

ヤンキー文化(ヤンキーぶんか)とは、日本国内において存在する集団の文化の形態のことを言う。
ここでいう「ヤンキー文化」とは精神科医の斎藤環によって定義される事柄であり、『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』『ヤンキー化する日本』などの著書が存在している。ヤンキー文化の特徴として提唱されている事柄には、物事の解決は気合で行うなどといった事柄であり、そのためには体罰などといった事柄も積極的に行っていくということである。他のヤンキー文化の特徴というものには集団で物事を行い、自身の家族や仲間などといった人間を大切にするといった事柄が存在する。また、ディズニー好きである[1]。
これらのようなヤンキー文化というのは日本の大部分に浸透しており、多くの日本人がこれに当てはまっているということであり、近年になってから多く取り上げられるようになっている言葉である絆というものは、ヤンキー文化に当てはまっているということである。政治の場面でも日本はヤンキー文化であるということであり、例えば選挙が行われる際には大声を張り上げた集会を行い、このことにより集まっている群衆に対して良いイメージを与えることができるということから、日本は統治をする方も統治をされる方もヤンキー文化であるということである[2]。

あるいは「マイルドヤンキー」の特徴も取り上げておけば、以下のとおり。

提唱者の原田は2014年5月12日放送のNHKNHKニュースおはよう日本」にVTR出演した際、マイルドヤンキーに多い傾向を以下のように上げていた[1]。
EXILEが好き
地元(家から半径5km)から出たくない
「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き
車(特にミニバン)が好き
ショッピングモールが好き
一方、不動産投資家の芝山元は以下のように述べている[2]。
生まれ育った地元指向が非常に強い(パラサイト率も高い)
郊外や地方都市に在住(車社会)
内向的で、上昇指向が低い(非常に保守的)
低学歴で低収入
ITへの関心やスキルが低い
遠出を嫌い、生活も遊びも地元で済ませたい
近くにあって、なんでも揃うイオンSCは夢の国
小中学時代からの友人たちと「永遠に続く日常」を夢見る
できちゃった結婚比率も高く、子供にキラキラネームをつける傾向
喫煙率や飲酒率が高い

なんとも言えない定義だ。偏見のような、しかしどことなく的を射ているような。

 

「日本すごい」と自画自賛、自縄自縛の状態に陥っていたり、ヤンキー文化に限らずなにかっちゃあ「絆」や「仲間」を掲げたり、日本全体が、結びつきを強くしようと躍起になっているように感じる。

違和感を覚えるけれど、そうやって近くに住む人たちとの連帯を強くして生き抜こうとしているのだろうと思う。

衰退が必至なこの小さな国においては、残された人間だけで、肩を寄せ集めることが、最も確実性の高い生存戦略なのかもしれない。

家族や地元を大切にし、日本という国家単位での連帯を感じ、「自分の居場所」を確保する。追いやられないように、「ここにいていい」と認められるように貢献する。「いないと困る」人になる。貴重な人、代替できない存在になることが生きる手法であり、目的になる。

 

会社でも、役職が上の人の目線を気にすることを「格好悪い」と思えるのは、たぶんこの先あと十年あるかないか、だろう。そういう格好の方が戦略としては確実だと、いつか気付くのである。こいつが会社にいないと困る、と思われなければ、いずれ居場所はなくなるのだ…。

 

そう考えているととっても虚しくなる。

「自分の特別さ」をいつまでも信じていなくてはならない世の中というのは、はっきり言ってしんどい。疲れる。面倒だ。

「自分は特別ではない」と「けれど、ここにいていい」を両立させてほしい。

「自分は特別だ」と思っていたい社会なんて、未熟ではないか?

唐突かもしれないが、「幽遊白書」の戸愚呂弟のセリフ「おまえもしかしてまだ 自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね」を思い出す。

今、この社会は、そこはかとなく「自分が死ななないとでも思ってる」ような気がする。ぼくだって、そういうところはあるけれども、その濃度がどんどん高まっているような。

貢献して、役立って、絆をつなぎとめて、居場所を確保するのも、それはそれで生き方だけれど、ぼくは心の端で、社会における「役立たず」として死にたい気がしている。

最近は、そういうことを考えている。

 

そういえば、東京都美術館若冲展、すごかったです。

若冲という人も、青物問屋の御仁としていろいろと貢献もされたそうだけれど、絵描きとしては、弟子を持たなかったからあれほどの技術も受け継がれることなく立ち消え、ただ自らの信仰にのみ忠実だったという点ではある種の「役立たず」だったように思える。

民衆に信仰心を芽生えさせたい、とかそういう意識も感じられないのだ。本当に自らの信仰心を体現しただけのような、珠玉の作品たち。誤読かもしれないが、今のぼくにはそう見えた。

若冲に限らず、芸術は、役に立たないものであって、それだからこそ価値がある。

孤立した一点であることが、とても大切だと思うのだ。

(そういう意味で、東京国立博物館でやっていた「黒田清輝」展は教育者や伝道者の側面が強すぎて、おもしろくなく感じてしまったのかもなあ。もちろん、その仕事の意義なんかは、素晴らしいと思ったのだけれど。)

*1:和物、という言葉が一般的か不安なので注釈をつける。ぼくがこの言葉を知ったのは宝塚歌劇の関係だ。宝塚歌劇ではフランス革命のあたりを題材とした作品がたくさんあって、その代表が「ベルばら」なのだが、そればかりが宝塚歌劇ではない。大抵どこかの組で着物を着て踊るような演目が披露されているのだ。これを「和物」と呼ぶ。要はタキシードやドレスが出てこない演目=着物、ちゃんばらなもののことで、所作等の難易度が高い割にお客さんの入りがあまり良くないことで有名。和物の時にこそファンが支えてあげないといけない、と母が言ってました。