diary

いつも考えていること

自分の目にある丸太、他人の目にあるおが屑

人を責め立てるのは、たぶんあるいはとても気持ちの良いことだろう。

なぜならば、自分に理があり、義があり、善がある、と疑って信じないから、もはや敵なし、揺らぎなし。
ただひたすらに相手を責め立てることは、もしかするとその人にとって癒しかもしれない。
 
たぶん多くの人は、間違うことが嫌いだ。
そりゃあ、まあ、そうだろう。
間違うことで人に迷惑がかかったり、自分自身が恥ずかしい思いをしたり、損をしたり、後始末、尻拭いをする必要があったり、間違ったらいろいろと大変だ。
 
しかし、間違ってしまうのが人間でもある。
正確無比な人間などいないし、状況、場合、時、様々な要因から間違いが起きることもある。
 
とはいえ「自分は間違う存在である」と直視するのは難しい。
いくら相田みつをが「人間だもの」と慰めてくれても、あるいは宗教が人の間違いを「仕方がない」と慰めてくれても*1、それだけでは癒され切れないものがある。
 
そのため、他人を貶めて自分は「あれほどは間違ってない」と思いたがることがある。
ぼくには、いや、ぼくにも、ある。
誰か特定の性質を持つ人、特定の感覚の人だけを指すものではなく、誰しもの心の中にある感覚だ。
自らの心の内を眺め、自分よりも明らかに間違っている、劣っている人を見て安心する気持ちがないとは言い切れない。
「ああ、ぼくには家もあり、職もあり、食べるものもあり、友人もあり、もちろんもっともっと欲しいものがたくさんあり、それを得ている人のことは羨ましいが、少なくとも持っていない人よりは持っている」と、何も自らが恵まれていることをわざわざ比較しなくてもいいにも関わらず、どこかで比較して、仕舞いには地球の裏側では三秒に一人の子どもが飢えで死んでいる、というような比較不能な対象を持ち出しさえして、安心しようとする卑しさが、人間には大なり小なり、あってしまうのではないだろうか。
なにも家があり、職があり・・・というような全体的なことだけでなく、ちょっとしたこと、「あいつは私学を出た金持ちの子かもしれないが箸の持ち方が汚い。俺は貧乏人の子だが、箸の持ち方だけはちゃんとしている」というようなことを、言葉にはしなくとも考えるような、そんなこと。
 
自分の正しさを補強するための材料として、劣った人を必要とする気持ち。
「自分は間違う存在である」と認められなかったが故に、さらに認めたくない自分が現れ出てきた。
見て見ぬふりをした卵から、さらに強大な怪物が生まれてしまったようである。
 
どこかで歯止めがかかればいい。
こんなことではいけない、と、自分と向き合得られればいい。
自分は確かに間違う存在で、もしあの時ああしていれば、もしあの時こうしていれば、今頃はもっと・・・と悔やむことがたくさんあって、でもその時は間違った、それは変えられないことで、それがあっての「今」なのだ、と気づかないといけない。
そうすれば、その後に続く他人との比較も要らなくなる。
他人と比較して、自分が正しいのだと思うのではなく、ただ自分のことを考え、自分のことを自分の力で肯定する。
それ以上を求めない気持ち、それ以上求めても「何もない(nothing、rien)」ことに気付くこと。
 
間違う存在であることを認められない人が、他人を貶めるためにすることのすべては悲しい。
それは冒頭述べたような「責め立てる」癒しを求めるからだ。
「俺が正しい」「お前は間違っている」という地点から、一歩たりとも動かない人との対話は虚しい。
 
たとえば、子が親に向かって「時間をおいてくれ」と頼んだとする。
それを親が「それが親に対する態度か」「縁を切るということか」「恩を仇で返すのか」「今までお前にかけた時間と金を返せ」と詰め寄ったとする。
 
それだけを聞けば、一般的に「育ててくれた存在」「その人なしには今の自分が有り得なかった存在」である親に対して「時間をおいてくれ」「放っておいてくれ」「干渉しないでくれ」ということは、非道いことのように聞こえる。
しかし、それまでにどのような経緯があったのかがすっぽり抜けて落ちて、ただ一般的に「親には感謝し、孝行すべき」という価値観だけをペタッと貼り付けるのは、拙速な判断である。
無論中には、何があろうと、どんなことをされようと「親には感謝し、孝行すべき」と言う人もあろうが、それはもはや冷静さを欠いた判断である。
様々な経緯があり、子が親に「時間をおいてくれ」などと悲しいことを言わざるを得なくなったわけであり、その言葉を発するよりも前に、ただ子だけが間違ったのではなく、どこか親にも間違ったところがなければ、そこまでは行きつかないはずである。
そのまま、一般論たる「親には感謝し、孝行すべき」だけを盾に、四方八方に援助を求め、子を責め立てるような人が、この世界にはたくさんある。
まるで、自分には何の落ち度もなかった、それどころか自分こそが正真正銘の被害者であると言い立てて。
 
「自分は間違う存在である」と認められれば、「他人もまた間違う存在である」と知り、他人の間違いに寛容になれる。
そもそも、人が人に接するにあたって、責め立てるなんてことがあっていいわけがない。
人は他人に責められずとも、すでに自分自身が最も自分自身を責め立てているのだから。
だから、他人に責め立てられた時は、無視しよう。押し黙ろう。
その人が求めていることは、自分への謝罪であり、屈服であり、服従であるのだから、それに応じる必要はない。
ましてや謝ってもらおうなんて、その人が謝る時は、その人がとことんに痛めつけられ、立てなくなった、そんな辛い目に遭うまで来ないし、それを望むことに何の意味もない。
ただ、自分の気持ちを第一に、大切に、して生きたい。

 

 

なお、本稿を書くにあたって、片田珠美『他人を攻撃せずにはいられない人』、田房永子『母がしんどい』『うちの母ってヘンですか?』を参照した。
他人を攻撃せずにはいられない人 (PHP新書)

他人を攻撃せずにはいられない人 (PHP新書)

 

 

母がしんどい<母がしんどい> (中経☆コミックス)

母がしんどい<母がしんどい> (中経☆コミックス)

 

 

うちの母ってヘンですか? (Akita Essay Collection)

うちの母ってヘンですか? (Akita Essay Collection)

 

また、本稿のタイトルは以下の聖書の言葉からである*2

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
(マタイによる福音書7章1-6)

 

*1:キリスト教において有名な祈りである「苦難にある者たちの告白」では、以下の通り、人の不完全性が祈られる。「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。/私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている。」リンク先訳から引用。A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFEREDi•aŽÒ‚Ì‹F‚èj

*2:ニーチェが指摘した、キリスト教が生み出した価値観である「ルサンチマン=弱者こそ善、強者こそ悪」を思えば、タイトルに置いてはキリスト教的価値観を掲げつつも「善を自任するな」と論じる本稿はどこか捻じれているように感じられるかもしれないが、むしろ本稿が問題とするのは「力への意思」であり、またルサンチマンに囚われない「超人」を目指すことを考えたものであることを理解されたい。