Nu blog

いつも考えていること

ぼくは祈らない。

Facebookのアイコンをトリコロールにしたからといって、誰も彼もを批判するつもりはないけれど、中学高校あたりの同級生がそれをしているのを見かけて、考え込んでしまう。

 
たとえばこの間はLGBTの権利が認められたとFacebookのアイコンをレインボーにするのがあった。
あれにも違和感を覚えたわけだけど、今回はその比じゃない。
 
しかし、違和感を覚えてから立ち止まってみる。
インスタントに、お手軽に、気楽に、アクセスしやすく、悲劇を悼み、平和を祈ることはそんなに悪いことか?
と自分に問えば、悪いと言えないよなあ、と思うのだ。
 
お手軽に、気楽にアクセスしやすいからと言って、不真面目だったり、真剣みがなかったり、なんとなくやっているわけじゃないだろう。
匿名でないことが前提のFacebookにおいて、追悼の意を表明するにあたっては、それなりの理由付けがあってのことと思うわけだ。
 
しかし、いやいや、と。
自分の身の回り、ある程度身近なところで悲劇が起きたからというだけで、それも分かりやすい「死」を目前にしたから、よし平和祈ろう、と考えるのは安易ではないか?
と自分に問うてみると、安易だよなあ、と思うのだ。
 
それでですね、ぼくが思ったのは、これはもう基準の違いだ。
どうした出来事に気持ちを寄せるのかは個人の問題でしかない。
それぞれがそれぞれに思いを寄せて、それでいい、そうすることで、この世の中の端々に思いが寄せられて、余すことなくこの世界が思いに満ちたらば素敵だと思う。
だから、フランスに悲しみを寄せること、他の国々にも思いを寄せること、それぞれがそれぞれの身近さを持ち寄り、時には「どうしてそちらばかりに目を向けるのか」と声を掛け合い、問題が山積していることを常に意識すれば、それで世界は思いにあふれる、と思いたい。
 
でもなあ。
フランスは空爆を強めたわけでしょう?
それはおかしい、と言わないのか?
フランスの国旗を掲げることは、その報復としての空爆に賛成しているようにも見える。
 
憎しみの連鎖、とはマスコミでよく見かける雑な表現だが、殺し合いは終わらない。
この殺し合いの終わりは、どちらかが殺すのを止めて、相手の気が済むまで殺されるしかないのではないか、と僕は極端に思う。
だって、許し合おうと声をかけるなんて、殺し合いの中で最も不毛な、腹の立つ行為じゃないか。
 
だから、フランスが殺すのを止めて、殺されろ、と言いたいわけじゃない。
フランスが先に殺したのか? それは誰にも断定できない。
 
ただ、どちらかが、そして私たち自身が、殺し合いに参加しないことを「決める」。
それだけではないだろうか。
だから、ぼくは連合国空爆には反対する。
都市でのテロは痛ましいことだ。許されないことだ。テロにも反対する。
 
殺すな。
あなたは報復するな。
 
死を悼むとは、その声を明確にすべきことで、よもや拳を振り上げ、報復することではないと、ぼくは思う。
あなたはそうは思わないのか?