diary

いつも考えていること

同性愛、夫婦別姓、結婚、少子化、コスパ

なぜ人は「子ども」のことを考えるのか、というのが最近気になる。

きっかけは、渋谷区パートナーシップ証明のニュースに対するヤフーコメントからだ。
同性婚少子化に役立たない」とか「恵まれない子を引き取って育てるくらいの責任が必要だ」とか書いてあるのを見て、何を言っているのか正直分からないのだが、一つ分かるのは「子ども」が好きな人が結構いるみたい、ということ。
あるいは夫婦別姓を求める大法廷での審議にも「子ども」の名前がどうなるのかを気にする人がいた。
どうやら、少なくない人が、「婚姻」というキーワードを聞くと同時に「子ども」を思い浮かべるらしい。
ヤフーコメントにはそれ以外にも罵詈雑言、クソみたいなコメントが溢れかえっていて、人々の闇を感じるのだが、それは置いておき。
 
結婚とは、様々な定義があり得るのかもしれないが、上野千鶴子はそれを
自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対して排他的に譲渡する契約のこと
と喝破した。
つまり、婚姻が成立している状態においては配偶者以外と性的関係を持つことを禁じられている、これこそが「結婚」の本質である、と。
それが法的に、つまり国家によって認められた状態である、と。
 
すなわち、女性のみ離婚成立後半年経たねば再婚できないルールもまさにこれに則ったものである(子どもの父親を明確にさせる=性的関係の基準としての結婚)。
戸籍制度=家制度に照らせば、結婚とは「その夫婦に属する子どもを設ける権利」を得た状態とも言える。
夫婦間の性関係と、その結果生じた子どもの属するところを定めることを規定したものが結婚という「制度(契約)の本質」である。
 
不思議に思わない人はそれまでだ。
はて、そんなために皆結婚したのか。
つまり、性関係や子どものために結婚したのか。
Yes or not。人それぞれの答えがあるか。
 
子どもを産むため、作るために結婚した人と言うのは多いかもしれない。
それがないなら結婚しない、という人もいるだろう。
その証左は「できちゃった結婚」「おめでた婚」「授かり婚」の一般化が挙げられるかと思う。
結婚前の妊娠による第一子の出生割合は、1980年(昭和55年)に10.6%だったが2004年(平成16年)には26.7%まで上昇。その後は、25%程度で横ばいが続いている。
 
「夫婦」という二人間の関係ではなく「家族」という複数人からなる関係を形成するために結婚というものがある、と捉えられているのだろう。
わざわざ結婚して「夫婦」になるのはコストが高い。交際段階でとどめておくだけでも十分なメリットがあると考えられている、と思われる。
 
NHKで「仮カレ」というドラマがやっているそうで、実際には見ていないのだけど先日番組紹介を見て面白そうと思った。
「仮カレ」とは経済力や向上心に欠けるが優しい男性を「好きだけど、結婚は別。本命の相手に出会うまでのつなぎの彼氏」としてキープしていることを示しているそうな。
わざわざ夫婦になるためだけ、あるいは子どもを作り家庭を形成するための「結婚」をするにはコストのかかりすぎる相手としての「仮カレ」の存在。
それを気持ちが欠けている、愛情不足と言うのはきっと違っている。気持ちや愛情を持続させるために、無用なコストをかけないようにする必要があるのだ。
気持ちや愛情を持続させるためのコスト、という観点は最近用いられる言葉で言うところの「コスパ」につながるのだろう。
そういや、アエラでも「結婚はコスパが悪い」みたいな特集をやっていた。
人間関係に「コスト」とか「パフォーマンス」を持ち出すな、と言う人もいるかもしれないが、コスパというのはただの損得勘定ではなく、人生に納得するための工夫みたいなものだと思うのだ。
加えて「コスパ」におけるコストの概念もお金というだけでなく、時間の感覚もある。
どれだけの時間を相手に注ぐか?
相手からはどれだけ大切に思ってもらえるか?お金と時間をどれだけかけてもらえるだろうか?かけてあげられるだろうか?
それがコスパであって、「愛し合った2人は永遠に幸せに暮らしましたとさ、ちゃんちゃん」と物語のように人生を捉えていざ結婚して「あれから半世紀!」と綾小路きみまろに茶化されるよりも、よほど相手のことを思いやった基準だと思う。
 
話を戻して、コストのかからない形としての結婚について。
つまり、子どもができた時、人間関係に置いて最もコストがかからない形態が「結婚」による家族形成なのではないか。 
そこで結婚しなければ、子どもは非嫡出子となる。昨年12月に最高裁判決を受けて民法改正され、嫡出子と非嫡出子の間の相続に関する差は解消されたものの、父親のいない子として「子どもが可哀想」などという言葉が浴びせかけられる。
 
ぼくはこの「子どもが可哀想」論法が大嫌いで、一見子どものことを思いやっているようで、完全に差別しているのである。
たとえば、夫婦別姓が認められたとしたら、親と子どもの名字が違っているなんて「子どもが可哀想」。
同性婚のカップルが養子なりなんなりの方法で子どもを育て始めたとしたら、違和感があって「子どもが可哀想」。
できちゃった婚も、順番が逆だから生まれてくる「子どもが可哀想」。
共働きの夫婦を見れば、子どもを保育所に預けてしまうなんて「子どもが可哀想」。
「子どもが可哀想」という言葉で思いやりや同情を表しているように見えて、その実親たちに対して「どうして"普通"に育ててあげないのか」と非難、差別を推進している。
 
また脱線した。コストの話に戻ろう。
だから、何年も同棲してこの関係でいいや、この関係がいいやと思えるなら無理に「結婚」を持ち出すこと=コストをかける必要はないのだと思う。
しかし一方で「結婚」しなければ、将来的に、長期的な視点でコストがかかることを予想して「結婚」するメリットもあるだろう。
老後を含めた関係の保障や、実際にかかる税金や居住に関わお金のるコストや、世間体への対抗、親からの「いつ結婚するの」というプレッシャーへの対応が面倒、といった地味なコスト、今すぐに計算できないコストを見越した「結婚」のメリットというのは考えられる。
 
冒頭のニュース、同性婚に対して「わざわざ"結婚"という制度を使おうとするな」というような批判がある。「わざわざ結婚しないと自分たちの愛情を信じられないんじゃないの」的な。
それは全く裏表に自分自身を突き刺す言葉でしかない。
つまり「結婚は相手への愛情、相手からの愛情を永年持続させるための装置(あるいは愛情がなくなっても離婚というカードは簡単には切れないから身分が保証されて大丈夫)」という発想が自分の中にあることに気付くはずだろうに。
同性婚を目指す人たちは、確かに自分たちの関係を持続させるためによりコストの低い「結婚」を用いたいと考えているのだろう。それが今できないからしたいと主張している面があるはずで、何も自分たちの同性愛を世間的に一般化して「本当は皆同性愛者なんだ」みたいなトンデモ主張をしたいわけじゃないはずだとぼくは思うのだけれど。
 
たまたま異性と愛し、愛される関係になれた人は「結婚」という選択もあれば、同棲と言うチョイスもあれるし、事実婚もある。
様々なチョイスがあって最もコストのかからない方策を「選べる」。
たまたま同性と愛し、愛される関係になった人にはそうした選択肢がなく、それどころか差別されるのだから、たまったもんじゃない。理不尽すぎる。たまたまなのに。
 
この「たまたま」を理解できない人も結構いる。
つまり恋愛=異性を対象とすると思い込んでいる人は、もうそれ以上先に行けない。
同性に対するインティメートな気持ちを友情と固定して動かす気がないというのは、そうした方が楽だからだ。
恋愛とは、人間関係において"親密に愛情を表現する接触"を許し合える関係を指示していると僕は思うのだが、友情はその「接触」を許さない。
ここで勘違いしてほしくないのは「接触」の定義で、性行為を示しているわけではない。性行為の中でもさらに、特に、愛撫や挿入、オーガズムというものを示しているわけではないことを強調しておきたい。
とはいえただの接触ではなく「親密に愛情を表現する」わけだからセックスも含めなくはない。「好きだ」「愛している」ということを言葉や態度で表現し、受容されることも含めて捉えてほしい。
そうした気持ちを同性に対して感じたこと、感じることはあるだろう。
十代の頃、同性に対してそうした気持ちを抱いて「この気持ちをどう処理すべきか」と悩んだことがある人は少なくないはずだ。そしてそれを友情であると規定しなおして、人は異性を愛するよう訓練されていく。
 
ここは重要で、人は「社会的な生き物に訓練されていく」ものなのだ。
だから、同性愛者を社会的に訓練されていない=未熟、わがままと捉える人がいる。
こういう人は法律で決まっていることはやたらに守ったり、守らせようとしたりする。
禁酒法ができればお酒を飲まなくなるし、大麻やマリファナは禁止されてるからやらないし、そのくせ競馬やパチンコ、風俗は合法だからいいのだと嘯く。
コネやごね得は法律上禁止されていないから「あり」で、むしろ使わない奴は馬鹿だと嘲ったりもする。
それが社会的に成熟した態度であればぼくは未熟がいい。
自分の頭で考えず、今あるルールに則っている「楽な生き方」に過ぎない大バカだ。
自由であろうとしない、自らに由ることができない「弱き強者」の存在を思う。
誰にも後ろ指を指されたくなければ、大樹の影に寄るのも一つの手かもしれないが、はじき出されてからの苦悩は人一倍だ。
照りつける太陽に身を焦がし、降る雨にずぶ濡れになり、それでも自らの足で先に進もうとしないのであれば、そんな人間はすでに死んでいる、と言ってやる。
社会性なんて糞食らえである。
 
子ども子どもとうるさい人はこの「社会性」がようく訓練された人だと思う。
日本人が、我が家が滅びないよう子どもを作る?子どもを舐めているとしか言いようがない。
子どもは日本のためにも、家のためにも、ましてや人類の存続のために生まれてきたわけでもない。ただ生まれたから生きるだけだ。それを「大きな主語」にすり替える人は「社会性ゾンビ」だ。
 
確かに親になる、親を務めることは大変で、そして様々な経験の出来ることと思う。
それであるからこそ、特別な人と子育てを協力してやりたいと思うこと、あるいは一人で子育てをしたい人もいたっていいし、 同性カップルや不妊の夫婦が養子をもらうこともいろんな人の中にはそういう人がいたって当然いいはずだ。
何も夫婦の形を模さなくとも、一人でも、あるいは三人組や四人組、地域で育てるさらに集団的な子育てがあってもいい。
男女の一対がもうけた子どもの身を認める現行の制度は硬直的で、非人間的だと僕は感じる。
そうした「例外的」な家族の在り方を認めると社会秩序が乱れる、と危惧する人もいるかもしれない。でも、むしろそうした様々な家族の在り方を認め、社会秩序の中に取り込まないと、むしろ秩序は保たれないんじゃないのか。
つまり、禁酒法を定めると、密かに酒を造り、飲む奴が出てくる。これこそ社会秩序の乱れじゃないのか。
いろんなあり方があっていいのだ、と法律は後押ししなければ嘘だ。
 
子どもをめぐる、結婚だのなんだのについて考えたこと―。