izumishiyou's diary

いつも考えていること

夫婦別姓についてー私とは誰か(私とは世界である)

結婚したら、女の人は姓が変わる。

そんなことは、男のぼくには無関係なお話、だと思って生きてきた。
でも、結婚したら、相手の女性の生活は、名前が変わり、手続きやらなんやら面倒な話に加え、日常における変化もあるというのに「ぼくは無関係」なんて、のはおかしい。
 
と考える機会があった。
婚姻届には「夫の氏」でも「妻の氏」でも、どちらかを選べばいいと、選択肢が示されていた。
つまり、1行目の「結婚したら、女の人は姓が変わる」というのは、勘違いだった。
 
しかし、「妻の氏」を選ぶということは、婿養子になるってことか。
結婚の話の中で、婿養子云々という話題になることは珍しいんじゃないかと思う。
よほど、女性側の親がそれを思い詰めていないと。
 
と思ったら、婿養子になることと「妻の氏」を選ぶことは別のことだった。
そもそも、婚姻届を提出することで、その夫婦は新しい「戸籍」を作ることになる。
それまでは「夫と妻」の戸籍に「子」として記載されていた状態だったのだが、そこから抜けて、新しい一つの箱を作るのである。
どちらかの親の戸籍に「入れてもらう」のではないから、どちらの「氏」を名乗るか、純粋に二人の間で決めたらいいことなのだ。
世に聞く「入籍」なる言葉は表現上、大抵間違っていて、結婚とはどちらかの戸籍に迎え入れるのではなく、二人で新しい戸籍を作ることなのだ。
「作籍」とか言う方が、正しいのかもしれない。
なんせ、その新しい戸籍において、「どちらを筆頭者にするかが「夫の氏」「妻の氏」選択の意味なのである。
どちらが先頭に来ても、世帯主とは別だし、ましてや家庭内のイニシアチブが決まるとか、土地を買う時にどーのこーのとか、そういう話じゃない。
日本では「わざわざ」夫婦ごとに戸籍を管理しているので、その時の検索をどちらの名前でするか、という目次的意味合いなのだ。
中立。どっちでもいい。
 
とはいえ、そこで筆頭者に選んだ方の姓に新家庭の姓は揃えられるので、どちらかの人は名前を変えなきゃならない。
そして子供の姓もそれに揃えられる、というのが現行の日本の「ルール」である。
 
そろそろお分りいただけたかと思うが、本稿は「姓とはなんぞや」をテーマにしている。
夫婦別姓、家制度、家父長制、そんなところがキーワード。
 
何せ、現行の法律では夫婦は姓を同じにする必要がある。
つまり、どちらかが姓を変えなきゃいけない。
なので、「婚姻届を提出する」とは、夫婦の姓を同じにすることを「選んだ」、と見なされるところがある。
 
どちらの姓を選ぶか、という問題ではなく、「姓は揃えなきゃならないのか」という話。
 
それは嫌だ、夫婦にはなりたいけど、姓を揃える必要を感じない、これまでと同じ名前でいい、というなら、婚姻届を出さない「事実婚」という形しかない。
もちろん「旧姓使用」は一般的なものになりつつあるが、法律でその権限を定められてはないので、その使用範囲に不明瞭なところがある。
勤める企業が変われば、使える範囲も変わってしまうし、使えない企業もありうる。
旧姓使用できない企業だったからと言って訴訟を起こすのも一苦労だし、ましてや就職活動中にそこはチェック仕切れないだろう。
でも、批判する人はそういうこと言ってくるんだよな。
というのも、togetterで以下のような発言を見かけたのである。
怖いなあと思った。
少なくとも日本の現行の婚姻制度(民法の内容)は分かっている訳だから、後出しじゃんけんで今更主張するのは筋が違うように思えますよね。(@kazemachi2)
 
これ、そのまんま
「あなたの会社で旧姓使用できないことは調べれば分かるのだから、後出しじゃんけんで今更主張するのは筋が違いますよね」
とか言い換えられる。
 
こういう「理路整然としているように見えるが、相手のことを理解しようとせず、ただ叩きのめそうとしているだけの主張」(「マウンティング」的主張、とでも言えるだろうか)に対して、どう反応したらいいのか少し悩んだのだけど、最近分かった。
無視、ですね。
よもや、理屈の正当性なぞ競ってはならない。
こういう人たちの目的は「より良い対処方法の追究」にはなく「勝ち・負け」に焦点を当てているので、話す意味がないのだ。
こういう人に限って「時間をかけてよく議論しよう」なんてことを白々しく言うのは、自分が主張を曲げないことを知っているからだ。
よもや、議論なぞしない方が身のため。
こちらが根をあげるまで相手は主張を変えず、本筋とは異なる点のみならず人格まで攻撃してくる。
うーん、無視ですね。
無視できないような相手でも、無視したらいいと思う。
無視してたら、関わらなくて済むし、それでも関わってきたら、国家権力の介入、つまり警察沙汰じゃないっすかね。
 
本筋から逸れた。
 
なんせ、なぜ姓を揃えなきゃならないのだろうか。あるいは、別々であることを許さないのか。
不思議である。
しかしながら、姓を揃えることのメリット、デメリットを並べ立てることは意味がないように思う。
メリット、デメリットは見方の問題で、同じ根拠からまったく別の意見が述べたてられることがあって、なかなか一概には言えない。
 
たとえば「姓を揃えると家族に一体感が出る」というような意見があったとする。
あなたはどう思うか。
ぼくはそもそもの話、
家族に一体感が出る=良い
のか?というところに疑問を感じる。
フレーズ、センテンスだけを聞けば、「一体感」、うん、いいんじゃない、と思われるかもしれないが、私のようなひねくれ者からすれば「一体感」は違った考え方、価値観を認めない抑圧、ファシズムと捉えられるのである。
つまり、姓を揃えて家族に一体感が出たって良いこととは限らない、という反論がありうる。

これは他のメリット・デメリットも同様だ。
「姓を揃えると〜」の「〜」部分が良いことが悪いことか、そこから話し出すとキリもないし、意味もない。
 
蛇足ながら、「日本にいる以上夫婦は同姓でなきゃダメだ!」と一体感を求める人はまさに抑圧的、ファシスト的であるようにぼくには見える。
あたかも全夫婦が別姓にしなきゃならない、と勝手に思い込んでいるあたり、今は自分が抑圧する側にいるからいいけど「負けたら」抑圧されるのではないかと鏡を見て怯えているようである。
 
なんせ、これがメリットだ、あれがデメリットだと言い立てても「せんないこと」なのである。
感覚から抜け出すことができないし、そういう相手に利便性について話してもまともには受け取ってもらえない。
 
なので、議論(らしきもの)はやめて、どちらかが姓を変えなきゃいけない、という前提に立った時、どちらが姓を変える方が運用上不便ないか、を考えてみようと思う。
つまり、旧姓使用するにしても、どうしたら一番楽なのさ、という考察。
そのうち夫婦別姓が導入されたら旧姓に戻すことを前提にした対応。
夫婦別姓の導入前に、旧姓使用するのに疲れてしまったら、意味がないと思うので。
 
二つのパターンを考えた。
 
1.夫も妻も、結婚後も変わらず同じ会社に勤める場合
どちらも制度上同等に旧姓使用が認められていることとする。
うーん、悩むな。
この場合は、どちらが名前を変えて旧姓使用しようと、どちらかにその負担がかかる。
どちらにしたら楽か、というのがない。
想像してみる。
「と、いうわけでどちらにすべきと思う?話し合おう」
やー、この話し合いは結婚生活の可否を占うんじゃないですかね。
「君の方が稼ぎが少ないんだから君が名前を変えろよ」とか「男が名前変えるなんて変じゃないか」とか言い出したら、婚姻届出す前でよかったですね。結婚は止めた方がいいと思う(そんなこと言う人が「夫婦別姓にしよう」なんてことから賛成してくれるとは思えないが)。
それから先も延々と同じ理屈で抑圧されるのは目に見えてる。
もちろん、女性が同様なことを男性に対して主張したなら、それもまた問題だろう。
これはくじ引きしかない。
ぜひくじ引きで、運に従ってください。
 
2.どちらかが引越し等に伴い、仕事が変わる場合
これは、簡単。
仕事が変わらない方が姓を変える。
はい、終わり。
 
なぜなら、新たな環境で旧姓使用を主張する負担は計り知れない。
「あなたの旧姓なんて知りません」状態の中「面倒な人」と思われながらも旧姓使用し続ける負担はぼくには想像できない。
専門職ならまだ、過去の実績があるのでそれを連続させたいから旧姓使用する、という理屈も周囲の理解を得られるかもしれないが、そんな理由が誰にもあるわけではない。
 
家事担当者として就職しない場合も同様。家事、あるいは育児をメインで担当するにあたって外での呼称を旧姓にするのはルールのある企業での旧姓使用よりも難易度が高く、悩むことも多いと思う。
やっぱ職場が変わらない方が「改姓したけどこれまで通り呼んでください」と言うのが楽だと思う。
 
どちらも職場を変わる、あるいは将来的に変わる可能性が高い夫婦については、たぶん1のパターンだろう。
くじ引いてください。
 
ここまで書いて考えられる批判に
「姓はどっちでもいいみたいに書いているが、名前が変わることはアイデンティティーに関わることで、くじ引きなんてことはあり得ない」
とか
「運用上不便だなんだと言うが、家の存続をまず第一に考えて姓は選ぶべきだ」
というようなものがあると思う。
 
名前とアイデンティティーは確かに、関わってくる問題かもしれない。
公的な書類で示される「私」と自己認識がずれることは望ましくないだろう。
だからこそ夫婦別姓、と思うがそれは置いておこう。
しかし考えようによっては
「私とは誰か」(par André Breton)*1

を考え直すきっかけである。
ぼくの今の結論、ぼくの考えは「自己即世界、世界即自己」の観念*2
こそが「私」を知るための重要な感覚だと思う。
つまり、「名がなんじゃ。バラの匂いは芳しい」である。
自分ということ (ちくま学芸文庫)

自分ということ (ちくま学芸文庫)

 

そもそも国家によって自己を定義するのは、危うくないだろうか。普遍性に欠けないか?

国家が破綻したら、あなたとは誰なのか、あなた自身で捉えられなくなるのではないか。
自己の感覚から世界を捉えることが、まず一人一人のすべきことで、その上で国家による統治に意味を見出すことはあっても、まず国家ありき、などとはぼくには思えない。
 
そうした「国に対する信頼や依拠」はどこからやってくるのだろう。
自分がこうして平穏無事に日常を過ごせるのは、日本という「国」がしっかりやってくれているからだ、と意識してか無意識か思っているわけだ。
国が何をしてくれたのか、国の存在意義は分かるが、自己の存在証明まで頼んだ覚えはないのだけれど…。
 
いやはや、私とは何なんだろうか。
ぼくには、戸籍に登録されることを自己の存在証明にはできないのだ
存在は、観念により世界と直結しているはずであって、国家や家族、ましてや戸籍というような行政上の手続きによって裏付けられるわけがない、と思っているのだ。
 
まだ知られていない花がどこかにはある。ただそれは発見されていないから、名付けられていないだけ。
そんな花は「辞書にないから、ない」とあなたは言うのだろうか。
 
少し話は変わるが、子どもの頃、布団に入ってから、暗闇の中「死んだらどうなるのだろう」と考え、震えたことはあるだろうか。
広い宇宙の存在を思って、自分の小ささに恐怖したことはあるだろうか。
 
大学に入ってから知り合った人にそのことを話して、一切そんなことを思ったことはない、考えたこともない、と一蹴されたことは、ぼくの中で「カルチャーショック」だった。
つまり、現存するモノゴトの存在そのものを「自明なもの」とストレートに捉えられる人がいるのだ。
それはとても稀有な能力だと思う。あるがままをあるがままに受け入れられることは、一つの偉大な能力だ。
しかし、疑問や配慮はしてほしい。
あるがままを受け入れられない人もいることに少し思いを馳せてほしい。

そうした人に疑問を挟むことが、「自明なもの」に対する挑発とか挑戦、戦いを仕掛けたとさえみなされることがある。
疑問を持つ側はいかんせん持ってしまうのだけれど、根拠のない「自明さ」に反論するのは難しくて、疲れるし、なぜか相手を苛立たせる。
「ないものはない」「あるものがある」と言い切れる人とは、議論の余地なんてなくて、話せない。
 
少し話を戻して「世界を自己の感覚で捉える」ことについて。
ぼくには、体系的にではないが哲学や社会思想に触れ、その中に上述の通り「自己即世界、世界即自己」の観念があった。
そもそも人間の存在、いわば生きる目的とは何かを考えた時、安易な結論を出すことはその人生を安易な結末へと至らしめる予感があった。
唯我論、独我論唯物論、唯心論、まあ、下手の横好きな知識であるから間違いがあるかもしれないが、「ただそれだけ」というような発想では乗り越えられないというのは、生活の中他者と関わることで感じたことである。
「我思う故に我あり」とは有名な文句であろうが、これは疑って疑って疑い切った末に「考えている自分がいる」ことに気がついた末の言葉である。
しかし、まさに安易に陥ってはならないのは「自分」がいるのではなく「考えている自分」がいる、ということである。
自分という存在が明らかになったわけじゃないのだ。考えている自分が、進行形的に存在することだけをかろうじて知覚できたにすぎないのだ。
「自己の存在」は自明のものではない。
ぼく、という存在は、「かろうじて世界があることを知覚できる」というだけである。
 
もう少し、ぼくの考える世界の捉え方、自己の存在について。
たとえばあなたは「√2」(ルート2)とは何だと思うだろうか。
平方根、と呼ばれるもののことである。
Wikipediaでは以下の通り定義されている。
数 a に対して、a = b2 を満たす b を a の平方根という。
√2=1.141421356…
ひとよひとよにひとみごろ、という語呂を覚えたかもしれない。
野矢茂樹は『無限論の教室』で以下のように言う。
現在多くの人は、√2は数の名前であり、そういう数が存在する、例えばこの対角線*3の長さとして存在する、そう考えています。
(略)
√2というのは、ひとつの完結した数につけられた名前ではなく、この開平法*4というやり方につけられた名前なのです。一般に、無理数というのは、こうしていつまででも小数展開を続けていく規則の名前なのです。(太字は引用者によるもの)

ぼくはこの一節を読み、分かった。

これは人間のことを言っていると直感したのである。

無限論の教室 (講談社現代新書)

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人間も無理数と同様に「ひとつの完結した」存在ではなく「ある生き方」を表す存在なのである。

世界に分けられ、かろうじて世界を知覚できる機能を持つ「ある生き方」を表す存在としての人間、と感じた瞬間にぼくは生きやすくなった。
ぼくは「完結」したり「完成」する必要はないのである。
良いも悪いもない。
世界がぼくを知覚し、ぼくが世界を知覚しているのである。
 
ここまでをまとめると「アイデンティティーが揺らぐのでは」というような指摘に対し、ぼくは「ぼくは世界であり、世界はぼくである」と答えるというトンデモ展開である。
しかし、まさにそうなのである。
むしろ世界を信じていない人ほどアイデンティティーが揺らいでしまうのである。
 
このあたり、学生時代はニヒリストとして友人たちに認識されていたぼくであるが、近頃はニヒリズムからもまあまあ脱却したものである。
というのも大西巨人神聖喜劇』を読んだことで、「ニヒリズムからの脱却」に関する新たな知見、道筋を得たことが大きい。
 
ぼくは5年前の就職に際し、まさに主人公・東堂太郎のごとく「この戦争(社会)で、死ぬだろう」との認識を持ったニヒリストであった。
学生の頃、特に就職活動が始まってからは「さっさと卒業して会社に入りたい」と思っていた。
それはなぜならば、会社に入ってしまえば、あとは「働く」というタスクが日々降りかかってくるのみであり、それをこなしていき、いつの日か「死ぬ」と勘違いしていたからだ。
学生のその時、ぼくは毎日、いや毎秒これからどうしようか、どうしたらいいのか、悩んでいて疲れていたのだ。
仕事が自分を自由にするような気がしていた。
つまり、服従以外、もう何も起こるまいと、ぼくはそう期待していたのだ。

しかし、現実に働いてみれば「死ぬ」ために生きるのは本意でないことに気付いた。
働いたことで得た知見というよりは、生きることへの能動性を獲得する過程における知見とも思う。
特に会社という組織は「こうであろう」という常識の横行する社会であるから、『神聖喜劇』の東堂太郎が軍隊における「こうであろう」に抗したように、ぼくもまた(あのような戦い方ではないにせよ)常識に対し、自分の思うところがあった。

その結果、東堂太郎が「私はこの戦争で死ぬ」から「私はこの戦争を生き抜く」へと向かった通り、ぼくもまた「この社会で死ぬ」から「この社会を生き抜く」、犬から人へと回生することを目指す予感を得たのである。
このあたり、ぜひ『神聖喜劇』(500ページ×5冊)をお読みいただきたいのである。
人は何のために生きるでもなく、生きてしまうのである。 
神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

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神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)

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神聖喜劇 (第5巻) (光文社文庫)

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神聖喜劇〈第4巻〉 (光文社文庫)

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神聖喜劇 (第3巻) (光文社文庫)

神聖喜劇 (第3巻) (光文社文庫)

 

(順番バラバラですいません)

ここでもう一つの指摘に考えられる「運用上不便だなんだと言うが、家の存続をまず第一に考えて姓は選ぶべきだ」について。

ここまで重要視してこなかったことに、考えていなかったこととして、子供の姓がどうなるか、という点がある。

時折、生物学を標榜して「生物の生きる目的は子孫の繁栄だ」と述べ立てる人がいる。

そういう人は究極的に「故に男性は浮気する」とかそういうことを言い出すわけだが、そのことは置いておこう。

子供にとって自分の姓が父方に依拠するのか母方に依拠するのかは一つの分かれ目かもしれない。

アイデンティティーのよりどころをそこ(=祖先、血筋)に求めることは、特にティーンエイジにはありがちなことだ。

しかし、少なくとも子供の姓がどっちであろうと、親や祖父母、周縁の親族には関係がない。

孫の姓が自分と異なるからと言って、何が変わるだろうか。

それでもって愛情の度合いが変わるのなら、そもそもその程度しか孫に興味がないということである。

「姓が違う」などということを隠れ蓑に、自分の愛情の薄さを宣言しているようなものである。

しかしながら、愛情が「家の存続」つまり自分の名が残る、残らない、という点に依ることはある、のかもしれない。

名前が続いていくことは、自分の死後も自分が生きていくことだと感じるのかもしれない。

中島らもは「家は焼けても柱は残る」という鉄骨住宅の名キャッチコピー(ボツ)を作ったが、なんとなくそれを思う。

国破れて山河あり、城春にして草木深し。

人は死んで消え去り、後に残るは山河、草木のみ。

とは思えぬ親心、か?

まともに答える気がないのではなく、これもまた自己即世界、世界即自己の観点から、そうじゃないでしょ、と言えるのかなと思うわけだ。


もう一つ。子供の名前に付随してよくある批判が、姓が両親と異なることは悪影響ではないか、ということがある。

世間において「変な噂やあらぬ憶測を呼ぶ」とか、つまるところ「いじめられんちゃうのん」ということである。

その世間とは、その批判者その人自身だ。

自分がそういった人に遭遇したら「変な噂やあらぬ憶測」に与する、と言っているようなもので、すなわち差別主義者であることを公言しているに等しい。

自分が「差別」することを、世間のせいにして、隠れ蓑にする分タチが悪い。

大体、「人と違うこと」に対してなぜ、そこまで目くじら立てるのだろうか。

そんなあなたはどこまで「世間並み」なのか。

誰だって一皮むけば「変」なのだから、自分の首は締めない方がいいと思う。

 

常に別々の人間であり続けること。

共に暮らす構成員に対し、そのことを日々思い、伝えながら生きていくことは難しい。

いつの間にか、「いて当たり前」「こう考えているだろう」「当然そうだろう」という期待を勝手に抱いてしまう。

それこそがファシズムだったとは、ぼくには思いもかけない結論だったが、そうなのだと今は確信する。

常に別々の人間であり続けること。

相手のことを考え、思いやり、悩み、努力して理解しようとする根本にはそれがある。
他人だからこそ、毎日気持ちを更新する必要がある。

その推進力、継続への意思がなくなったら関係は終わってしまう。

でも、それくらい意思の必要な人間関係の方が、戸籍にあぐらをかいた人間関係より、ずっと人間関係らしい。

日々すれ違い、微修正すること。

こまめなメンテナンスもせずに、日々の運用だけをやり過ごしている家族では、たとえ「姓」が同じでも、それは何らの機能も果たせないだろう。

ぼくはそうした気持ちや行動の連綿としたつながりこそが「自己と世界」の不可分な関係を直感させるのではないかと思う。

最後には個人、すなわち私しかなく、すなわち世界しかないのである。

 

最後に、山崎ナオコーラの『可愛い世の中』について、書いて終わりたい。

可愛い世の中

可愛い世の中

 

この小説は設定がナオコーラ的と言おうか、本当にぼくはこの小説が好き、っていうかナオコーラが書くものは全部好き。

唐突に訳の分からない告白をしてしまったが、本筋に戻ろう。

主人公・豆子は経済力がある。大学を卒業して、就職して、まじめに仕事をして、なんぼか銭を貯められた女性である。

勉強はできたし、仕事もちゃんとしているし、趣味もあって、20代の頃は、一生独身で、家を買うつもりだった人である。

一方、結婚相手の鯛造は、貯金が40万円あると言っていたのに「桁を見間違えていて」4万円しか貯金がないような人である。

とはいえ、定職にはついているし、借金もしていない。実際はちゃんとした人なんである。

なんていえばいいのか。どうにも「できない」人であって、優しさややる気や、思いやりは人一倍ある。

そんな二人が結婚する。

結婚式を挙げたい、と豆子は思った。

れも、親からの卒業みたいな結婚式じゃなくて、自分の経済力で進めていく結婚式、可愛い結婚式じゃなくて「ぶす」な結婚式を。

女性の豆子だが、ドレスを着るのではなく「スーツを着たい」と考える。ドレスを着たって、似合わないし、スーツの方が自分らしい。

しかし、そのことを聞いた姉がドレスを手作りしてくれる。

有り難く受け取る豆子、しかしジャケットを羽織ろうと思う。

それを母が「恥だ」と批判して、豆子は当日の当日になって、会場のホテルが貸してくれたボレロを羽織った。

お見送りの際、みんなが特に褒めてくれたのはその「ボレロ」だった。

豆子は「この結婚式の記憶を消したい、なかったことにしたい」と思う程だった。キャラじゃないことをしてしまった、と悔やむ。

 

その後も小説は続くのでぜひお読みいただきたい。山崎ナオコーラの作品にハズレはありません、安心してください。

この豆子の後悔は、ただ「キャラじゃないことをしてしまった」ことではない。

身内からの批判や意見に対して「仕方がない」と考え、その意見を取り入れてしまったことにある。

結果、こだわった結婚式にしたかったのに、ドレスを着た普通の女性が登場して、普通の結婚式を執り行った事になってしまった。

引出物も高価なものを選び、料理もいい料理にして、とこだわりまくっていたのに誰もそれには気付かない。

普通の結婚式になり下がってしまったのだ。

 

ぼくは思う。

誰から批判があろうと、一貫性を保つために、自己の思うところを曲げないこと。

仕方がないからと言って曲げたことも、最終的に自分の責任に帰せられ、思いがけない批判を産む。

批判する人は何の呵責も感じないでいるし、何の責任も問われない。

いい気なものだ。

周囲の期待に応えるよりも自分がどうしたいか、で考える。

「私とは世界である」。

その感覚を失い、周囲の「親切心」に足元をすくわれることは、終生自己の反省点となる。

 

先にも書いたが、もう一度書こう。

「自己と世界」の不可分な関係を直感すれば、最後には個人、すなわち私しかなく、すなわち世界しかない、のである。


さて、夫婦別姓に関して、大法廷での審理が予定されている。

賛同いただける方はぜひ以下リンク先署名をお願いします。

10/27まで、よろしくお願いします。


キャンペーン · 名前を変えずに結婚したい!〜LOVE MY NAME ♡ 選択的夫婦別姓制度の実現を〜 · Change.org


*1:アンドレ・ブルトンによるシュールレアリズム小説『ナジャ』における冒頭の名文句。「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」もこの小説の一節である。

ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)

 

 

*2:「私」や「自己」を「こと」として理解するということは、私たちの意識にとらえられている世界を物理的・自然科学的な世界としてではなく、「おのずから」としての「自然」の相のもとに見るということである。そのとき、「私」も「世界」もともに一つの根源的な生命的躍動から生まれた分身として理解されることになる。(中略)「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」という西田幾多郎の言葉は、まさにこの境地を指している。この自己即世界、世界即自己の自覚を措いて「私」ということもありえないのである。(木村敏『自分ということ』p.66-67)

*3:引用者註:一辺を1とする正方形の対角線のこと

*4:引用者註:√2は2乗すれば2になる数であるため、1より大きく2より小さい。次に1.4(2乗すれば1.96)より大きく、1.5(2乗すれば2.25)より小さい。というやり方