結婚したら、女の人は姓が変わる。
少なくとも日本の現行の婚姻制度(民法の内容)は分かっている訳だから、後出しじゃんけんで今更主張するのは筋が違うように思えますよね。(@kazemachi2)
1.夫も妻も、結婚後も変わらず同じ会社に勤める場合
2.どちらかが引越し等に伴い、仕事が変わる場合
そもそも国家によって自己を定義するのは、危うくないだろうか。普遍性に欠けないか?
数 a に対して、a = b2 を満たす b を a の平方根という。
現在多くの人は、√2は数の名前であり、そういう数が存在する、例えばこの対角線*3の長さとして存在する、そう考えています。(略)
ぼくはこの一節を読み、分かった。
これは人間のことを言っていると直感したのである。
人間も無理数と同様に「ひとつの完結した」存在ではなく「ある生き方」を表す存在なのである。
学生の頃、特に就職活動が始まってからは「さっさと卒業して会社に入りたい」と思っていた。
それはなぜならば、会社に入ってしまえば、あとは「働く」というタスクが日々降りかかってくるのみであり、それをこなしていき、いつの日か「死ぬ」と勘違いしていたからだ。
学生のその時、ぼくは毎日、いや毎秒これからどうしようか、どうしたらいいのか、悩んでいて疲れていたのだ。
仕事が自分を自由にするような気がしていた。
つまり、服従以外、もう何も起こるまいと、ぼくはそう期待していたのだ。
しかし、現実に働いてみれば「死ぬ」ために生きるのは本意でないことに気付いた。
働いたことで得た知見というよりは、生きることへの能動性を獲得する過程における知見とも思う。
特に会社という組織は「こうであろう」という常識の横行する社会であるから、『神聖喜劇』の東堂太郎が軍隊における「こうであろう」に抗したように、ぼくもまた(あのような戦い方ではないにせよ)常識に対し、自分の思うところがあった。
その結果、東堂太郎が「私はこの戦争で死ぬ」から「私はこの戦争を生き抜く」へと向かった通り、ぼくもまた「この社会で死ぬ」から「この社会を生き抜く」、犬から人へと回生することを目指す予感を得たのである。
(順番バラバラですいません)
ここでもう一つの指摘に考えられる「運用上不便だなんだと言うが、家の存続をまず第一に考えて姓は選ぶべきだ」について。
ここまで重要視してこなかったことに、考えていなかったこととして、子供の姓がどうなるか、という点がある。
時折、生物学を標榜して「生物の生きる目的は子孫の繁栄だ」と述べ立てる人がいる。
そういう人は究極的に「故に男性は浮気する」とかそういうことを言い出すわけだが、そのことは置いておこう。
子供にとって自分の姓が父方に依拠するのか母方に依拠するのかは一つの分かれ目かもしれない。
アイデンティティーのよりどころをそこ(=祖先、血筋)に求めることは、特にティーンエイジにはありがちなことだ。
しかし、少なくとも子供の姓がどっちであろうと、親や祖父母、周縁の親族には関係がない。
孫の姓が自分と異なるからと言って、何が変わるだろうか。
それでもって愛情の度合いが変わるのなら、そもそもその程度しか孫に興味がないということである。
「姓が違う」などということを隠れ蓑に、自分の愛情の薄さを宣言しているようなものである。
しかしながら、愛情が「家の存続」つまり自分の名が残る、残らない、という点に依ることはある、のかもしれない。
名前が続いていくことは、自分の死後も自分が生きていくことだと感じるのかもしれない。
中島らもは「家は焼けても柱は残る」という鉄骨住宅の名キャッチコピー(ボツ)を作ったが、なんとなくそれを思う。
国破れて山河あり、城春にして草木深し。
人は死んで消え去り、後に残るは山河、草木のみ。
とは思えぬ親心、か?
まともに答える気がないのではなく、これもまた自己即世界、世界即自己の観点から、そうじゃないでしょ、と言えるのかなと思うわけだ。
もう一つ。子供の名前に付随してよくある批判が、姓が両親と異なることは悪影響ではないか、ということがある。
世間において「変な噂やあらぬ憶測を呼ぶ」とか、つまるところ「いじめられんちゃうのん」ということである。
その世間とは、その批判者その人自身だ。
自分がそういった人に遭遇したら「変な噂やあらぬ憶測」に与する、と言っているようなもので、すなわち差別主義者であることを公言しているに等しい。
自分が「差別」することを、世間のせいにして、隠れ蓑にする分タチが悪い。
大体、「人と違うこと」に対してなぜ、そこまで目くじら立てるのだろうか。
そんなあなたはどこまで「世間並み」なのか。
誰だって一皮むけば「変」なのだから、自分の首は締めない方がいいと思う。
若いひとがまだわかっていないもののことを「世間」と名付けたうえで、若いひとを「世間知らず」というのであれば、それはもちろんその通りなんだろうけど、その指摘になんの意味があるのかはよくわからない。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 10月 13
「世間知らず」というのは、その字面だけではなく、その排除の仕方も含めて、「仲間はずれ」に似ているのだろう。「世間」といわれているものは、あんがい「仲間」ぐらいの意味しかないのかもしれない。そこでいう「世間」には参加できなくても、ほかにも別の「世間」があるのかもしれない。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 10月 13
「仲間はずれ」というのは、自分たちの「仲間」にこそ最上の価値があるという認識のもとに成立している嫌がらせだから、「『仲間はずれ』をされても平気でいるひと」というのは、その「仲間」の価値を否定する最大の脅威となる。「仲間に入れて」と懇願されないと、自分たちの価値が揺らいでしまう。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 10月 13
「仲間」という価値を維持するため、「『仲間はずれ』されても平気でいるひと」に対しては、より直接的な攻撃が仕掛けられる。「攻撃をやめて欲しければ『仲間に入れて』と懇願せよ」という脅迫として、力づくで「仲間に入りたい」と思わせようとする。「世間知らず」もまた、似ているのかもしれない。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 10月 13
常に別々の人間であり続けること。
共に暮らす構成員に対し、そのことを日々思い、伝えながら生きていくことは難しい。
いつの間にか、「いて当たり前」「こう考えているだろう」「当然そうだろう」という期待を勝手に抱いてしまう。
それこそがファシズムだったとは、ぼくには思いもかけない結論だったが、そうなのだと今は確信する。
常に別々の人間であり続けること。
相手のことを考え、思いやり、悩み、努力して理解しようとする根本にはそれがある。
他人だからこそ、毎日気持ちを更新する必要がある。
その推進力、継続への意思がなくなったら関係は終わってしまう。
でも、それくらい意思の必要な人間関係の方が、戸籍にあぐらをかいた人間関係より、ずっと人間関係らしい。
日々すれ違い、微修正すること。
こまめなメンテナンスもせずに、日々の運用だけをやり過ごしている家族では、たとえ「姓」が同じでも、それは何らの機能も果たせないだろう。
ぼくはそうした気持ちや行動の連綿としたつながりこそが「自己と世界」の不可分な関係を直感させるのではないかと思う。
最後には個人、すなわち私しかなく、すなわち世界しかないのである。
最後に、山崎ナオコーラの『可愛い世の中』について、書いて終わりたい。
この小説は設定がナオコーラ的と言おうか、本当にぼくはこの小説が好き、っていうかナオコーラが書くものは全部好き。
唐突に訳の分からない告白をしてしまったが、本筋に戻ろう。
主人公・豆子は経済力がある。大学を卒業して、就職して、まじめに仕事をして、なんぼか銭を貯められた女性である。
勉強はできたし、仕事もちゃんとしているし、趣味もあって、20代の頃は、一生独身で、家を買うつもりだった人である。
一方、結婚相手の鯛造は、貯金が40万円あると言っていたのに「桁を見間違えていて」4万円しか貯金がないような人である。
とはいえ、定職にはついているし、借金もしていない。実際はちゃんとした人なんである。
なんていえばいいのか。どうにも「できない」人であって、優しさややる気や、思いやりは人一倍ある。
そんな二人が結婚する。
結婚式を挙げたい、と豆子は思った。
それも、親からの卒業みたいな結婚式じゃなくて、自分の経済力で進めていく結婚式、可愛い結婚式じゃなくて「ぶす」な結婚式を。
女性の豆子だが、ドレスを着るのではなく「スーツを着たい」と考える。ドレスを着たって、似合わないし、スーツの方が自分らしい。
しかし、そのことを聞いた姉がドレスを手作りしてくれる。
有り難く受け取る豆子、しかしジャケットを羽織ろうと思う。
それを母が「恥だ」と批判して、豆子は当日の当日になって、会場のホテルが貸してくれたボレロを羽織った。
お見送りの際、みんなが特に褒めてくれたのはその「ボレロ」だった。
豆子は「この結婚式の記憶を消したい、なかったことにしたい」と思う程だった。キャラじゃないことをしてしまった、と悔やむ。
その後も小説は続くのでぜひお読みいただきたい。山崎ナオコーラの作品にハズレはありません、安心してください。
この豆子の後悔は、ただ「キャラじゃないことをしてしまった」ことではない。
身内からの批判や意見に対して「仕方がない」と考え、その意見を取り入れてしまったことにある。
結果、こだわった結婚式にしたかったのに、ドレスを着た普通の女性が登場して、普通の結婚式を執り行った事になってしまった。
引出物も高価なものを選び、料理もいい料理にして、とこだわりまくっていたのに誰もそれには気付かない。
普通の結婚式になり下がってしまったのだ。
ぼくは思う。
誰から批判があろうと、一貫性を保つために、自己の思うところを曲げないこと。
仕方がないからと言って曲げたことも、最終的に自分の責任に帰せられ、思いがけない批判を産む。
批判する人は何の呵責も感じないでいるし、何の責任も問われない。
いい気なものだ。
周囲の期待に応えるよりも自分がどうしたいか、で考える。
「私とは世界である」。
その感覚を失い、周囲の「親切心」に足元をすくわれることは、終生自己の反省点となる。
先にも書いたが、もう一度書こう。
「自己と世界」の不可分な関係を直感すれば、最後には個人、すなわち私しかなく、すなわち世界しかない、のである。
さて、夫婦別姓に関して、大法廷での審理が予定されている。
賛同いただける方はぜひ以下リンク先署名をお願いします。
10/27まで、よろしくお願いします。
キャンペーン · 名前を変えずに結婚したい!〜LOVE MY NAME ♡ 選択的夫婦別姓制度の実現を〜 · Change.org
*1:アンドレ・ブルトンによるシュールレアリズム小説『ナジャ』における冒頭の名文句。「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」もこの小説の一節である。
*2:「私」や「自己」を「こと」として理解するということは、私たちの意識にとらえられている世界を物理的・自然科学的な世界としてではなく、「おのずから」としての「自然」の相のもとに見るということである。そのとき、「私」も「世界」もともに一つの根源的な生命的躍動から生まれた分身として理解されることになる。(中略)「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」という西田幾多郎の言葉は、まさにこの境地を指している。この自己即世界、世界即自己の自覚を措いて「私」ということもありえないのである。(木村敏『自分ということ』p.66-67)
*3:引用者註:一辺を1とする正方形の対角線のこと
*4:引用者註:√2は2乗すれば2になる数であるため、1より大きく2より小さい。次に1.4(2乗すれば1.96)より大きく、1.5(2乗すれば2.25)より小さい。というやり方