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izumishiyou’s diary

いつも考えていること

より倫理的な消費の仕方ーアイドル、スポーツ、サービス業

うーん。
見てないから、そのものへのコメントはできないけど、わざわざ生放送するAKBの総選挙ってのは、なんなんだろうか。
テレビつけたら女性がこれからもグループ全体を応援してほしい旨スピーチをしていた。
うーん。

物語消費やらデータベース消費やら、我々の消費する態度の変化について現代批評はことさらに雄弁であるけれど、果たしてそもそもの消費する、されるとは何かがぼくには分からないままだ。

高校生の頃ACの不思議なCMをしていた女性三人組がPerfumeであり、大学一年生の時、どかーんと流行り御多分に洩れず僕もハマったのは、物語消費の文脈だった、と思う。
要は田舎から出てきた女の子三人組がひたむきにがんばって武道館に行くまでの物語。
中田ヤスタカの楽曲の持つ世界観も好きだけれど、三人の物語がフューチャーされていたし、おもしろかった。
それまでアイドルだった三人が「JPN」で働く女性になったのが僕の中でのピークで、彼氏と仕事、現実と理想、みたいなのが表されてる!と思ったら「LEVEL3」でまたアイドルに戻ってちょっとがっかりした。
基本はあ〜ちゃんの「私らも頑張ってるけんみんなも明日からがんばってこー!」的な、典型的な夢を与えるアイドルなので、彼氏がかまってくれん、仕事がだるい、買い物楽しい、みたいな価値観を歌っていては維持できないものがあるのだろう。

はたまた、相撲好きが高じて家に番付表や手拭いや扇子や軍配があるわけだが、力士に対して物語消費してる気がする。
白鵬という孤高の最強力士、日馬富士ら伊勢ケ浜部屋の結束、照ノ富士の優勝、そして大関昇進なんかまさに劇的な物語だった。
稀勢の里琴奨菊豪栄道らの背負う物語もまた。
新しい世代が台頭して、年を取り、引退する。スポーツの世界は果てしない新陳代謝の繰り返しだ。

まあ、僕は物語消費とデータベース消費の性質を理解しきれていないため、うまく説明できないけど、なんせそうやっていろいろと楽しんできたのだ。

娯楽、特にアイドル(スポーツ選手も広義にはアイドルだ)を対象にした娯楽は、人を消費することを基本としているのである。
歌なりスポーツなり、技能、芸を持っているとはいえ、実際に生きている人間を商品、モノとして消費している。
その人そのものを楽しむのだ。
これを「対人消費」と仮に呼ぶとすれば、たとえば俳優も棋士も大抵のことは対人消費だ。
なにもAKBに限らず、この社会において人を消費すること、対人消費は娯楽の基本的な在り方なのである。

容姿や体力といった年齢を経るとともに価値が減るとされるものについて、その消費の仕方は議論になりやすい。
アイドルが恋愛することでクビになったり、スポーツ選手の引退後の生活が安定しなかったり、消費するだけ消費して、ぽいっと捨ててしまうのはいかがなものか、というようなお話。
消費される側としても、その後の生活が安定することは関心の一つとなっていて、現役時代からちゃんこ屋を経営したり、ファッションブランドを立ち上げたり、知名度を年金にする。
一握りの成功した人がそうやってお店を開くと、残念ながら夢破れた人らを雇ってあげられて、ある種のセーフティネットになったりする。
業界ごとに様々なセーフティネットがあることだろう。そこから漏れてしまう運命もあるだろう。

しかし、そうした消費態度やその後の処遇の問題とは別の話をしたい。
それは個別の対応方法を論じるより他ない。相撲には相撲の、アイドルにはアイドルの、棋士には棋士の人権があり、その後がある。

むしろ、知らぬ間に、そうした「対人消費」と関係ないと思っている自分自身もまた消費されている、消費の対象となっているのではないだろうか、ということを考えたい。
いやいやいや、私は普通に生活しているよ、大した給料ではないですが、なんとか楽しく生きております、なんて呑気に思っている場合なのか。
私達自身も消費される対象であり、そこから逃れられないのではないか?

たとえばサービス業、コンビニ店員はただ時間を切り売りしているだけなのか。
アパレル店員、飲食業、各種エンドユーザーと接する窓口業務、介護や保育、教育さえもそこに含められるかもしれない。
というか、この高度に発展した資本主義社会においては、人間のすべき仕事はすなわち生身の人間にしかできないサービスであり、その必要のないものはもう機械に取って代わられている。
つまり、仕事はすべてサービス業だ。
そしてサービス業とは有形無形のサービスを顧客に提供するものだ。この有形無形のサービスが、商品ではなく、自分自身なのである。
つまり、「あなたから買うわ」とか「あなたと仕事がしたい」とか「お前は信頼出来る」とか、今仕事とはそうやって評価される。
すべての成果物はそうした対人サービスの顕在化したものに過ぎない。

いわば私達は目に見えない形で顧客(上司や同僚を含む)から「総選挙」されている状態、なのだ。

万人の万人によるサービスの「総選挙」=対人消費、という社会の様相があると思う。

なので、アイドルの総選挙は女性を売り物にした非人間的なものだ、なんて批判はアイドルだけでなく、人を売り物にしている社会全体への批判となるべきなのだ。
しかし、その程度の批判は前半部分のみの「対人消費の倫理」についてしか論じることができず、結局より倫理的な消費の仕方が問題とされるだけなのだ。
年金も生活保護も、総選挙もタレントの副業も、ぜんぶ「対人消費」を前提とした倫理のあり方を議論しているだけで、対人消費の是非は、問い直されない。

当たり前だ。
資本主義が始まってから、いや産業革命以降人は労働力を売ることとなったのであり、労働力とは人間そのものの商品化なのだから、そこを問題にすると土台から揺らいじゃってどうしようもない。

あーあ、アホらしいなあと思う。
土台はもう議論されないのだろう。なんか、この社会はとりあえずこれでいいから、うまいこと補修してやっていこう、というムードしかないもの。

しかし、簡単に消費消費、というけれど、消費しない態度とは何か、が問題だ。
それは考え切れなかったので、また考えて書きます。