Nu blog

いつも考えていること

笑いとは差別であるーバカリズムの演じる女性と柳原可奈子の演じる女性の違い

笑いは差別だ、とは中島らもの至言である。
だから、チビ、デブ、ハゲ、ブス、ちんば、びっこ、つんぼ、かたわ、アホ、バカ、キチガイ、あらゆる「劣等」は全て笑いにつなげられる。
男、女、オカマ、その他性的な分類や日本人、アメリカ人、フランス人、ロシア人、中国人、韓国人、黒人、白人、黄色人種、髪の色、生まれたところ、目の色…。
表現を不快に思われた人がいたら陳謝する。
差別、笑いとは優越感につけ込んだ安心なのだ。
私は「それ」ではない、という思いこそが笑いへとつながる。

だからこそ芸人は「私」=笑われるべきキャラクターを演じることで笑わせる。
それが素の自分に近いか、遠いかは芸人による。海原はるか・かなたのハゲ頭に息をかける芸があるが、あれはつまりハゲである私を笑えというメッセージである。

だから笑いはなるべく想像力が必要だ。
あまりにも現実と近いとそれは笑いではなく風刺、批評の域に入る。
たとえば田房永子さんがどぶろっくのネタを笑えないと書いていたことがある。
それは田房さんにとってどぶろっくの想像力はあまりにも「現実に近い」生々しいものと感じられたからである(そうでないと感じる人もたくさんいる)。
 「電車内加害者の『膜』」や「『膜』の中のストーリー」を理解し始めたことで、私の体に変化が起こった。テレビから「どぶろっく」の芸が流れると、顔が能面のように固まるようになってしまった。
 彼らの「もしかしてだけど」というシリーズは、「もしかしてそれって俺のことを誘っているんじゃないのか?」をテーマに、女に対してこんな妄想した、というエピソードを歌っていくもの。
 私には、どぶろっくのネタが、痴漢加害者が発想する「『膜』の中のストーリー」そのものにしか聞こえない。テレビのお笑い番組の中では、「ろくでもない男による、突拍子もない勘違い妄想」とされているが、実際の痴漢加害者はこのどぶろっくが歌っている「突拍子もない妄想」を現実だと信じ込んで実行に移しているのである。

さて、何を言いたいのか、というと先週放送されたらしいENGEIグランドスラムバカリズムのネタがおもしろかったらしいことについて。


外にいて地震で山手線につかまっていたせいで見られなかったのだが、会う人会う人におもしろかったと言われるんであるが、見てみたらこれは厳しい。
男性による女性の批評、これはまったく不愉快である。
バカリズムの演じた「女性」というキャラクターは男性の目からしか見えていない、笑う対象としての「女性」なのだ。
チビ、デブ、ハゲと同列に女性を並べ、それを演じ、笑いとしていたのである。

女性というキャラクターを演じることの第一人者は柳原可奈子と僕は思う。
彼女の演じる「女性」はバカリズムの演じる「女性」と違い、女性を内面化した女性、つまり愛されなければならない抑圧を内面化したこの社会にいる女性であり、その女性は笑いの対象ではなく、その愛されなければならないという抑圧をこそ笑いの対象とするからこそ、誰にも不快さを感じさせない。

簡単に言えば、人を笑うと角が立つ、ということである。女はこうだよな、というと女は腹が立つ。それは日本人はこうだよな、とかデブはこうだよな、とか言われると言われたその属性を持つ当人が傷つく、ということだ。

笑いとは差別である、差別は誰かを傷つける。傷つけてもよい相手は、「劣った」相手ではなく、「驕った」相手だと思うのだ。
よもや女性を驕った相手だと思うのであれば、現状認識をだいぶ外している。
それはまるで、白人キリスト教徒というこの世のど真ん中にいる人間らが、非白人イスラム教徒を笑いの対象としたシャルリー・エブド紙と同じようにぼくには思える。
白人キリスト教徒らには、非白人イスラム教徒が劣っているにもかかわらず驕っているように見えるのかもしれないが、事実は明らかに反対であり、白人キリスト教徒が圧倒的有利な社会なのだ。
それと同様にこの日本では、女性が強いと言われているが、その実男性が圧倒的有利な社会なのだ。

今だ誰も男性を笑いの対象とできていないのではないか。
クールポコの「〜な男がいたんですよ」というのもその男を笑いの対象とはしていない。
もしかするとどぶろっくは初めて男を笑いの対象としたのかもしれないが、女を介してしか現れてこない男であり、犯罪者の思考を持つ男であることは、まだまだ男であることがこの世の中心、それを標準としてこの社会が成り立っていることを象徴しているのだと感じる。

笑いは差別である。その差別は小さなもの、声なきものにではなく、大きなもの、声大きものに向けてほしい。
あるいは誰も傷つけない微笑みを。