diary

いつも考えていること

返事じゃない言葉、地の塩、世の光

自分の期待していたようなことが起きると嬉しい。誰でもそうだと思う。

 
人から好かれる人、人気者、信頼を置かれる人というのは、相手の期待に応えられる人だ。
 
僕がたとえば「暑いなあ」と思ったら、ふいに母親が僕の部屋に来て「冷蔵庫にアイスあるよ」と言う、そんなこと。
まだもう少し一緒にいたいなと思っていたら、「時間あるから、もう少し話そうよ」なんて言われるようなこと。
仕事で、どうしたらいいかわからないまま相談に行ったのに「じゃあこうしましょう」と前向きな返事をもらえるようなこと。
 
期待したことと反対のことが起こることもある。
欲しいと思ったものは何もなく、したいと思ったことは何もできず、してほしいことがしてもらえない。
 
期待の反対はなんというのだろう。検索してみたら「絶望」なんて言葉が出てきたけど、そこまでじゃない。「憂慮」という言葉もあって、これはいいかも。あんまり日常的じゃないけれど。
「懸念」「おそれ」、そんな言葉かもしれない。
 
整理すれば、人は、人に対して「期待」と「おそれ」の二つを持って、接する。そして、相手の反応が「期待」していたもの、あるいはそれ以上に良いものだったら嬉しく、「おそれ」ていたことが起きたなら悲しい。
「期待」していたことをしてくれる人には好意を抱きやすいし、いつも「おそれ」ていることを起こす人のことは嫌いになる。
期待とおそれの順番とか変化とか、いろいろ絡み合って、好き嫌いは一瞬のうちに決まりいつの間にか流転するものだけれど、簡単に言っちゃうと人は人に期待し、おそれ、好きになり、嫌いになるのだと思う。
 
自分が相手に対して期待するように、相手が自分に対して期待していることがある。
相手の「期待」に応えてあげたいと素直に思う自分もいれば、この人のことを困らせてやりたいと思う自分がいることもあるし、期待に応えてあげられないけれど精いっぱいのフォローをしたいと思うこともある。
たとえば就活における面接って、そんなやり取りの凝縮で、「自分は期待に応えられていないのではないか」「見当はずれなことを言って失望させているんじゃないか」なんてことを思っているうちにご縁がなかったと一方的に告げられて終わる。
恋愛でも、期待されればされるほどそうでない自分に苦しんだり、がんばる自分を見ていてくれている相手のことを思ったり、あるいは相手への期待が外れたり、がんばりの見えない相手になおさら失望したり。
 
人と人が接する時、期待と反応と感情がまばゆく行き交うことを思う。
オフィス街、高層ビル、商業施設、住宅地、電話、メール、SNS、あらゆる場所、様々な手段、人と人の間に、虹色に光る「糸電話」が見えるような、そんな気持ちになる。
 
 
素直な気持ちが、素の自分が、持っている実力が、たまたま結果として相手の期待に応えられるのであれば、そんな簡単なことはない。楽勝だ。ラッキーだ。奇跡だ。
「私は○○ができます」「そんな人を待っていました。採用」
なんて、ありえないこと。
「ちょっと小説を書いてみました」「なんてすばらしいんだ、はい、芥川賞
なんて、ありえないこと。
「一目見た時からあなたのことが好きでした」「私もです」
なんて、ありえても、果たしてどうだか。
 
そんなことはありえないので、みんな誰かの期待に応えるために努力する。
その時想像している期待は、自分の自分自身への期待でもある。こうなりたい、こんな人が私は好きだ、という期待。そしてそれになれない自分。
人は自分も含めた人に期待し、失望し、おそれ、なおも求め、あるいは人に期待され、おそれられ、求められ、あるいはネリリし、キルルし、ハララしているか。万有引力とは、ひき合う孤独の力である。ね。
 
ところで、男はどんな女性が好きなのか、なんて漠然としたことを考える。
 
男はどんな人生を描き、その人生にどんなパートナーを得たいと思っているのだろう。
なんと難しい問題か。もちろん、男に限らず女性にとっても。
 
死の間際、生きていてよかったと思いたい。
そのために自分が生きていたことに意味があってほしい、この世における自分の価値を高めたい、たくさんの人に自分を認めさせたい、そんな気持ちがあると、まず仮定したい。
 
断定的に言って、男性にとっての生きる価値、自分の価値を高めるものは他の男性である。
他の男が俺を認め、ボスとして神輿を担いでくれること。
 
そしてまた断定的に言って、女性にとっての生きる価値、自分の価値を高めるものもまた男性である。
「男に認められた」男に見初められ、妻として迎え入れられること。
 
認められなくてもいいと、本当に自分のやりたいことをやってる人は狂人、変人扱いだ。
芸術家がその例で、認められることよりも、やりたいことをやっていれば頭おかしいと思われるのが常だ。
誰を見よとは名指ししないが、そのような例はごまんとある。
 
さて話は戻り、モテる女性、男の好きな女性とは、「男に認められることを価値とする女性」のことだ。
今、どんな女性を妻とすれば、男は他の男から羨まれるか。
美しいこと、容姿に優れていること、料理が上手なこと、どんなだろう。
 
男は
「自分の言うことを聞く女」
が好きだ。
 
これを言ってしまえば、全世界を凍らせるような気さえする。
男でありながら男が怖くなる。
美しくあり、料理を作り、自分を立てる甲斐甲斐しく"俺"を思ってくれる女。
ありのままの"俺"を尊重しない女なら要らない。
 
そうやって少し自分の周りにいる女性を思い浮かべると「言うことを聞く女」になりそうな人の多いことに気がつく。
いや、女に言うことを聞かせようとする男の多いこと、か。
 
「親もそうだったから」ー僕らの親は専業主婦が多く、働いていたとしても家事は女性がするものであった。父親がするのは休日のカウチソファのお手入れだの窓拭きだのであって、日用の糧や衣服や掃除をするものではないのであった。
 
僕らは夫婦の生活をそれしか知らない。他の夫婦の姿を知らないから、やれない。あったとしても、逸脱した存在として「あれは特殊だ」「あれは誰にでもできることではない」「あれは少しおかしい」「イマドキの人たち」「中では揉めているに違いない」なんてことを言われ続け、その存在は決してお手本にはならない。
 
気がついたら、「男を立てる女」がモテる社会ができていて、男に認められるにはそう振る舞うより他ないのだ。
そうせざるを得ない女性、男の要求に屈せざるを得ない状況、相手の期待に応えることを強いられる社会に腹が立つのだ*1
相手に期待することは一つの明らかな暴力である*2
お前はこうすべきだと決めつける期待が、人をその方向へと向かわせ、その人の意思、自由を奪う。
 
「言うことを聞く女」。
結婚したら、自然と家事を担っているような女。
男よりも年収が低い女。
支える女。
あなたの成功が私の成功、と言える女。
 
彼女らが「自分の言葉」を放ったら、男社会をようやく凍らせ、黙らせられるだろう。
そして凍てついた大地に一つの芽が、真にあなたを欲する芽が、氷を突き破り現れるなら、いや、そのような芽が現れなかろうと、その凍てついた大地こそ自分自身の表現、能力の発露である。
 
 
いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋りだすのなら
何千回ものなだらかに過ぎた季節が 僕にとてもいとおしく思えてくる(小沢健二天使たちのシーン」)
 
返事じゃない言葉を話さないと、いつまでも人の期待に応える鏡のような自分しかいなくなる。
自分は鏡じゃない。自分は光を反射する存在でなく光を放つ存在である。
 
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書5章13-16節)
 
 
相手の気持ちに応えようとする自分の気持ちなんて捨ててしまえばいい。
好かれるよりも重要なこと。
 
あなたがしたいと思うことを人にもしなさい、とはこれまたキリストの言葉だ。
僕は、他人の犠牲なく、共に欲するところを成就するかたちで欲し、成し遂げたいと思う。
 
何度でも書いて僕は自分で自分を確認する。
問題を問題として、いつも目に見える状態にしておく。

*1:だから僕は上司の言うことを聞かなきゃならない飲み会が嫌いだ。好きな人の言うことならいくらでも聞きたいのだけれど

*2:相手に期待しないこともまた一つの暴力である