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izumishiyou’s diary

いつも考えていること

男性の遊び

この社会は男性を中心としているので、女性であることが話題になることはあっても男性であることが話題になることはほとんどない。

女偏の漢字はたくさんあるが、男偏はないというのは不思議なもので、日本においては世界を認識する言葉がすでに女は見られる側、男は見る側であると示している、と感じる。

英語やフランス語なんかでもそういうことあるのかな。womanとかfemmeとか、語源を辿ると的な。Googleさんではよくわからなかったけど。
 
角界では昨年来、女性ファンの増加が話題となっている(角界って相撲のことです)。
増えていると思う。
僕が相撲を見始めた10年前くらいは、府立体育館に若い女性はほとんどいなかったように思う。
芸者さんとおじいさんとおばあさんしかいなかった。端的に言って不人気だった。ガラガラだったし。
少なくとも女性が周りのおじさんのように「白鵬ー!」とか「いきおーい!」のような、大声で声援をかけることはなかった。
今はいわゆる「黄色い声援」がたくさん聞こえる。女性がなに憚られることなく声援をかけられるのはとても良いことだ。なぜ女性は遠慮せなあかんのか、っつー話である。好きなだけ好きなように声を出せば良いのである。
若貴ブーム時も若い女性が多かったと聞く。
落ち込んだ人気を復活させたのもまた新たに増えた女性ファン、ということだ。
何を今さら女性に驚くのか、とすら思えるけれど、もっぱら女性ファンの増加は驚きの側面から語られている。
 
プロレス界隈でも女性ファンが増えたらしいし(プ女子)、歴史好きな歴女や鉄道好きの鉄子等々、男性を主体としたこの社会では少し女性比率が上がると大騒ぎだ。
森ガール、山ガール、カメラ女子、カープ女子、〜女子、〜ガールはどんどん増えていく。
それによって女性が自分の趣味を「特殊」であると卑下する必要がなくなるならとてもいいことだと思う。
 
なぜこのように、特に娯楽の世界で、女性の比率が上がることに社会は反応するのだろう*1
もちろん新たな顧客層の開拓という理由はあるが、それを除いても女性が「遊ぶ」「外にいる」ことが「異常」「特異」「奇異」なことだからじゃないだろうか。
 
女性はこれまでどうやって遊んできたのか。
パッと思い浮かぶのは宝塚歌劇やジャニーズ、韓流、あたりではないだろうか、想像力が貧困で申し訳ない。
それら女性が主流である娯楽は、たとえばおっさんがターゲットの週刊誌には載らない。
テレビに出るとしても男性が見ない時間帯、たとえば昼間12時、笑っていいともだとかにどれだけジャニーズが出ようとお仕事中のおっさんは見ることができない。
韓流ドラマも昼下がり、主婦層のための時間帯に流されていたし、宝塚歌劇は主婦しか行けない平日昼間の公演でも十分賑わっている。
表舞台に出る時はあくまでさり気ない感じでないと男性から叩かれることを肌で感じているかのように、舞台や昼下がりのドラマ、ビデオを中心にした文化を作り上げることで男性の目から逃れているように思える。
ジャニーズだって、たくさん見かけるように思うけれど、芸人やマツコ・デラックス的な怒涛のブームではなく、あくまでも控えめな態度があるように思う。
ちょっとこれ以上考えを深める手がかりや熱意がないけれど、今挙げた「世界」は大変な熱意を持った世界だ。
たぶん表象文化論として様々な研究がされていることと思うので、教えてもらえたらと思う。全く検討はずれなことを考えているかもしれない。
女人禁制ならぬ男子禁制の空間について。せめてそこだけは土足で荒らさないで、と祈るような空間の作られ方、と思うのだけれど、どうだろう。
 
 
さてさて、実は僕は今回「〜ガール」について書きたいのではなく、男性はどこにいるんだろうってことを書きたいのだ。
 
話を戻して、相撲で若い男性ファンが多くいるかというとそうでもない気がするのだ。
いや、この直感はかなり感覚的だ。もう少しきっちり考えてみたい。
 
まず「若い男性」をどう定義するのか。
ここは思い切って20〜40代をそう定義しよう。つまり、いわゆる働き盛り、仕事を中心として生活する世代だ。
未婚者もいるだろうし、子どもがいる、いない、親の介護の有無、正規雇用非正規雇用、自営業、都市、郊外、田舎等々、様々な生活上の背景が考えられるものの、ここはエイヤッとかなり大雑把にまとめて、「仕事を中心とした生活を送る層」を想定したいと思う。
 
彼らの生活の中心は定義の通り「仕事」だ。
日本型雇用慣行において正社員は毎月決まった額を払えばいくらでも使い放題な労働者である。*2
そうでなくとも男性が稼ぐことは日本社会の規範の基本である。
反対に男性の家事、育児参加時間の短さは諸外国と比べて異常なほど短い。*3
家事をしてはいけないかのようである。
家庭生活はパート、あるいは専業主婦の妻である女性に任すか、独身者であれば実家暮らしなら母親に頼り、一人暮らしならコンビニ弁当、家は寝るだけ。
そんな環境の中、日々を過ごすと言える。*4
平日は仕事に明け暮れ、家事をすることなく、よもや趣味の時間を持つ余裕はほとんどないようである。
休日も休日出勤や接待ゴルフがあったら、男性は何をしているのだろう。
少なくとも相撲を見てる暇はないな。
僕だってちょっとは残業をした後短い時間の中録画で見る日々だ。土日の接待がない仕事であるのだけが幸いだ。
 
みんなどこにいるんだろう。
どこで遊んでるんだろう。
おーい(こだまする僕の声)。
 
しかし、「男の遊び」で検索したら分かった。
というか、検索した瞬間に思い浮かんだ言葉がある。

「飲む・打つ・買う」だ!

あまりにも思い浮かんだ感が強すぎて太字にしてしまった。
もしかしてピンとこない人のために言うと、飲むはお酒、打つはギャンブル、買うは女性のこと。
 
男は長時間労働の後に接待だか社内交流だか分からないがお酒を飲む。
毎日じゃないかってくらい飲む人もいる。
真っ直ぐ帰ることを許されていないのかと思うくらいだ。
しこたま飲んでいてもなぜか2軒目に行きたがる。
その日だけで6000円〜10000円が消費される。
あえて汚く表せば、次の日の吐き気、小便へと消える金…。
コミュニケーションのためのお酒などと称してただ騒ぎたいだけ。
お酒を飲むことが目的なのに、隠れ蓑にコミュニケーションなどという。
晩酌が趣味の人もいるだろうし、もはやアルコール依存症一歩手前の人も少なくないだろう。
 
ギャンブルは街に出れば驚くほどある。
日本全国津々浦々、郊外や田舎であってもパチンコがある。
競馬、競艇、競輪、雀荘、馴染みがなければまったく見えないだろうけど、意識して見渡せばそれらは周りにたくさんある。
誰が行くんだろう?
男が行くのである。
ちなみに、ゴルフはギャンブルである。
スコアーを競い、賭けていることを世の奥様方は知らないかもしれない。
 
買うは言わずもがな、夜の繁華街の隆盛がそれを物語る。
田房永子さんの『男しか行けない場所に女が行ってきました』はオススメだ。
風俗を楽しむ男はまるで栄華を謳歌する王様のようだ。
不安を取り除くように清潔な待合室、という話には恐ろしさを感じた。
僕もそういうところは暗くジメジメとした背徳感、後ろめたさで成り立っているものとばかり思っていた。
男とは、なんとこの世に歓迎された存在か。
一方その傍ら、女たちの暗く惨めなこと。子宮を通るにあたって「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と宣告されたかのようにさえ思える。

 

男しか行けない場所に女が行ってきました

男しか行けない場所に女が行ってきました

 

 

これら「飲む・打つ・買う」の意味は何なのか。

いや、むしろ、男性は飲み、打ち、買うことしか許されていないようにすら僕には思える。
飲む・打つ・買う、これらは男の何を満たすのかを考えたい。
 
結論から言えば「男性の自己嫌悪」を満たすのではないか。
 
男性は自己の肉体を肯定することができないでいる。
射精の快感(苦痛と言うべきかもしれない)に代表されるような肉体の感受性の鈍さを受け入れられないでいる。
このことを森岡正博は『感じない男』等において「男の不感症」と呼んで論じている。
感じない男は感じる女を見て感じない自分をやっと感じることができる。
羨みや嫉妬で自分の感じなさを掻き立てる自傷行為なのである。
自らを傷つけることでやっと自らを確認できる。感じない自分の肉体を、精神を虐待することで、ようやく男は快感を覚える。
トレーニングなんかもそうだ。肉体をいじめ鍛えることで自分の肉体を調教する感覚。
不感症でもいいのだが、それよりももううちょっと身近な言葉である「自己嫌悪」と表すことができると思う。
 
飲むという行為にはそんな嫌いな自分への懲罰的な意味合いがあるようにしか思えない。
もっと気持ち悪くなりたい、記憶をなくしてしまいたい、自己の身体を傷つけたい、そんな欲望があるのではないか。
 
打つ、ギャンブルも自分を失う行為に他ならない。
そもそも得る、失うという結果を求める姿勢は、射精の快感(苦痛)を想起させる。
結果が出た後、勝ったとしてもさらなる勝ちを求めることになる。
それでも勝ちを求めるのは自己嫌悪の果てと捉えられないだろうか。
 
女を買うことは自己嫌悪の究極の表れだ。
女をモノにすることで自分を男として肯定する。
他者、それも「下」である女によって、ようやく自分を肯定する。
手段としての女であり、否定としての男。
 
自分のことが好きになれない。女性を通して女性でないことを証明することでしか自分を認められない。自分を認めるために、何かを失ったり、傷つけたり、否定しないとやってられない。
その気持ち、自己嫌悪が男性を飲む・打つ・買うといった身を痛めつける被虐的な行為へと駆り立てる。
男性には酒の失敗やギャンブルの負け、女に振られたことを誇る文化があると思う。
それは「お前も自分が嫌いか、俺も自分が嫌いだ」と慰め合うことで自分らをなんとか好きになろうとする自虐的なパーティのようだ。
 
俺は自分が大好きだ、という人もいるかもしれない。でもその肯定感はどこから来ているのだろうか考えてほしい。
その肯定感は、自分やあるいは他の誰かを痛めつけること、否定することで得ているものじゃないだろうか?
自分の感じなさを認めていないだけではないか?  

 

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

 

 

などと言っておいてなんだが、男が本当にそういうようなとこにいるのか、うじゃうじゃといるのか、いまいち実感がつかめない。

本当に酒場にいるおっさんは酒場にしかいないのかと問われれば自信を持てない。あの人たちは実はとても魅力的な趣味の持ち主でたまたま酒場にいるだけかもしれない。
それに実際風俗を利用したことがある男性は4割というデータがあるらしい。過半数を下回るわけだ。
 
などと言っておいてなんだけど(2回目)、僕自身を振り返れば、かつて飲むのは大好きだったし散々記憶をなくしたり暴れたりしてて、打つのも麻雀なら誘われればほいほい行ってたし、競馬にも行ってみたいと思ってたし、買うのも機会があれば行ってみたいと思ってたものだ。
 
お酒の失敗が続いて「もうやだ」ってなって、今は飲む前にはウコンの力を飲むし、なるべく飲まないようにゆっくり飲む。一気飲みは絶対しない。
 
麻雀も最近は誘われないし、誘われても行かないと思うし(体力がない)、競馬やらなんやら、ましてやパチンコなぞ興味がない。
 
かつては男同士で話している時に「今度誰々先輩に連れてってもらおう」なんて会話がよくあった。結果、一度キャバクラとガールズバーに行った罪はあるけど、それからキャバ嬢の社会学やら感じない男や男の貞操やらを読んで、ありゃいかん、あかん、よろしくない、良いと言えぬ、と反省している。
ポルノもこの買うの一部に入ると思う。ポルノについては以前書いたとおりだ。
 
何も開き直る気はなく、かつて「男らしい」自分がいたことを思えば、はっきり言って悲しい。
こんな悲しいこともない。
過去は取り返しがつかない。覆水盆に返らずで、今カーペットに残った染みを見ては苛立ったり、染みに気付けたことに感謝したり、この染みはこの世の中にいる全ての女性の痛みそのものではないかと慄いたり、こうして書けば少しふざけたように思えるかもしれないが、今表そうとしている以上に僕は昔の自分の行いを恐れている。
罰が与えられるならいつなのだろうと待つ身であり、ただ待つだけでは決して許されぬ贖う身である。
それは先の自虐とは違うものだと思いたい。反省はともすれば快感に変わりかねない。俺はこんなに反省できる、どうだ、すごいだろう、と誇る気持ちになればそれは何の反省でもない。
反省とは当然誇るものではなく、自らの加害者性を見つめ、「なぜそのようにしたのか」という問いを自問し、社会的に答えていくことだと思う。
反省には自虐の快楽が潜んでいる。その究極が自殺、きっぱりとした自殺でなく緩慢な自殺だろう。
無為の日々を送ることや自暴自棄になることを想像すると、ある種ゾクゾクする。そんな日々に「実は毎日自分を責めていた」なんて一言をポロっともらそうもんなら、ドラマの出来上がりだ。
繰り返しになるが反省とは問い、答えることだ。その前提として、加害者であろうと生きること、それを無条件に肯定したい。そして生活や考え方、生き方を健全に立て直すことで、答えを示さなければ被害者のやりきれなさはやりきれないままだと思うのだ。
一度きりの人生としての答えを出すのではなく、たとえ何度も同じ人生を生きることになっても自信を持って答えられる答えを見つけること。反省はこれまでの自分の否定であるが、新たな肯定でありたいと僕は思うのだ。
 

さて、僕は僕を救うためにも男性の遊びを見つめ直したい。
先に見たような「自己嫌悪」を乗り越えるような遊び、新しい欲望はなんだろう。
 
ごちゃごちゃと書いているけど、テーマは一つ、僕は「男性らしさ」からの逃亡、人を傷つけない欲望の在り処だ。
 
立ち戻って、僕がこうして「男はどこにいるのだろう」と思ったのはしつこいが「相撲」だ。
田房永子さんが見た世界を裏返すかのように角界は今、女ばかりいる男の世界だ。
もっと言えば、男が「かわいい」という言葉で消費される世界である。
ジャニーズ等アイドル界隈に比べればまったく及ばないだろうが、女性に消費される男性の図式がそこにある。
また、僕自身その男性を消費する図式にずっぽりハマっている。
10年前に見始めた頃に比べ、力士の可愛いこと。
いや、僕は昔から力士をかわいいと思っていたのかもしれない。
垣添のずっと尖らせた口、両手を先にどんと置くたちあいが好きだった。安馬のニキビ面を自らのニキビと重ね合わせ、愛していたと言っても過言ではない。
今は碧山の見事なおっぱいや豪風のくしゃっとした顔、照ノ富士の笑顔、足首、もうどんな力士であっても必ずかわいいのである。
だいたいあんな丸々してて可愛くないわけがない。臥牙丸を家においてソファにしたい!
 
このような相撲の見方は、特に男性においては一種異様であると思う。
男性にとって相撲、あるいはスポーツとは、勝敗を決するものである。
誰が一番強いのか、それを決する場がスポーツである。
その意味でスポーツはギャンブル、射精の延長線上にあると僕には思える。
 
しかし、「かわいい」という価値観は、結果=勝敗を無効にしてしまう。
勝敗なんて「かわいい」ことにはなんの関係もない。勝ち負けに関わらず好き、弱くても好き、なんてことがありうる。
うろ覚えだけど、四方田犬彦の「かわいい論」でかわいいは文脈を無効にしてしまうというようなことを書いてたと思う。
かわいいは男の価値観を崩してしまうキラーワードなのだ。
だから、男は「かわいい」を言わない。
男が女をかわいいと言う時、それはその女が他の女よりも自分の好みであると褒める=勝利したことを宣言する時である。
ましてや、男が男に対してかわいいなどと言うことはない。
男にとって同性愛ほど怖いものはない。ホモフォビア、同性愛嫌悪はこの社会(=男中心の社会)の基本だ。
自分が男であること=女でないことを示すためには女を所有しなければならない。しかし同性愛者は自分を所有しようとする、自分を女性化する可能性がある。だから同性愛は排除される。
「かわいい」男を見ることが娯楽になるなんてあり得ない。
強い男を見て、強い男に憧れること=射精できる男、女を獲得できる男に憧れることこそがスポーツを見る意味なのだ。
 
さて、なぜ僕は「かわいい」価値観を手に入れたのか。
力士がかわいいからである、というのは理由にならない。
かわいさは、自らの中にその物差しを持たなければ見出すことができない。物差しがないうちに「かわいさ」は見つけられない。
 
そのきっかけになったのはBLではないかと僕は思っている。
会社に入ってから知り合った人に教えてもらってBLを読む機会があって、男が男を対象とする世界を知って大変に驚いた。
そしてはっとした。
男子校で育んだ友人関係を僕は友情として片付けていたが、そのうちのいくつかのあの濃い気持ちは「恋」だったのではないか。
夏目漱石の「こころ」における「先生」と「K」の関係はまるで恋のようである、とはそんなに珍しい発想ではない。
しかし10代にとって、しかも男子校において「あいつはホモらしい」とか「ホモっぽい」などという評判は、はっきり言って致命傷である。
たとえどれだけ「あいつらいっつも2人でいるよな」というのがあっても親友であるとしておかなければ、比喩でなく死ぬ。
男ばかりの社会であるからこそ、自然とホモフォビアが基本の社会が形成され、そのコードに則って振る舞う。
 
そう思うと、そのコードを振り払ってみれば、実は自分はこれまでかなり多くの男に恋してきたのかもしれないのだ。
こいつと知り合えて嬉しいとかこいつがこれからどうなるかを見届けるために長生きしたいとか、そういう気持ちを持ったことがある。
男性間で「あいつと出会えてよかった」と思える相手が、一人くらいそういう人が思い浮かぶものだと思う。
女性に「こいつめっちゃええ奴やから、俺が保証するから付き合ってみ!」「俺が女やったらこいつと付き合いたいもん」と言えるような相手。
あいつのためなら仕事放り出しても駆けつけるとか、あいつが困ってるならできる限りなんぼでも貸したるとか、結婚式の友人代表は俺しかいないしあいつしかいないとか、葬式の弔辞はあいつに読んでほしいしあいつが先なら俺が読むとか、そういうことを思うような相手。
親友。
そんな気持ちが女性に対するものなら、いとも簡単に恋だとされるものが、男を相手にしたら友情として処理しなくちゃならない。
果たして本当にそれは友情なのか。恋ではなかったか。
そんなことを思うと、自分は感情の処理を、実に男性社会のコードに沿って処理してきたのだなと感心する。
 
そう思えたのは、ただBLを読んだからだけでなく、僕と同期の男性の「カップリング」を妄想されてるという話を聞いたからだ。
攻めがどっちで受けがどっちかは忘れた。
それを聞いた時、その時は「やめろよ」などと言ったかもしれないが、おお!と思った。
割と嫌じゃないな、なんなら嬉しいな。そうか、あいつとか。あいつとは確かに仲が良いから、うーむ、付き合ってみたらどうなんやろ、ええ奴やろな。みたいな。
 
自分が性的客体として消費されることは一種の快楽である。
これは「キャバ嬢の社会学」で北条かやさんが言う「女性という商品になる依存性」に近いと思うのだが、人から見られること、それを肯定されることは快感だ。
肉体を鍛えている人が「いい体してるなあ」と言われることはきっと快感だろう。
僕は夏場に薄着をしてると「細い!」と言われる。ピチッとしたズボンを履くと「おしり小さい!」と言われることもある。努力してそれを維持しているわけでもないくせに、嬉しがってしまう。
カップリングを妄想されるということは、二人の間の友人関係の親密さを肯定されたということだと捉えて、僕は嬉しく思ったのかもしれない。
 
もちろん、たとえば男性が女性に対して「君とあの子の仲の良さを見てるとレズじゃないか妄想してしまう」などと言えば、よほど特定の文脈でなければセクハラである。
それどころか先の「お尻が小さい」も文脈を間違えればセクハラである。
僕だって気安い知人から言われるから嬉しいんであって、見知らぬ人に言われて喜ぶわけはない。
いや、気安い知人であっても、自分より体が大きい相手で、部屋に二人きりの時に言われたら、自分が相手に対する好意を持っていない限り怖いと思うだろう。
性的客体になることは一種の快楽であるが、予期せず性的対象として消費されるリスクを伴う怖さも併せ持つ。
この紙一重の線引きは、コミュニケーションという文脈の中で立ち現れるので、説明が難しい。
男性は女性に対して文脈の越境、侵犯をやりがちである。
たとえば「彼氏実家暮らしなん。ほな泊まる時はいっつも自分の家なん?」と言うことさえも、なぜお前に2人の関係、それも泊まる泊まらないなどという個人的なことを聞かれなあかんねんというように、十分怖い。
「何人と付き合ってきたん?」とか「初めて付き合ったんはいつ?」とかも、予期せぬ性的対象化になり得る言葉だと思う。
これらは自分や自分の周りで案外普通にある会話であるからこそ、思えば気持ち悪いなと思ったので例に挙げてみた。
実感のわかない例であった場合は申し訳ない。
そのように一つ一つの言葉を取り上げれば大したことなさそうに聞こえるけど、意味するところを考えれば(知りたいだけ、なんて理由は表向きのものでしかない)、特に男性が女性に対してその質問をする意味はただその女性を性的対象として消費したいだけにすぎないことが分かる言葉がある。
反対に男性はそれを聞かれても、自分が性的対象になる不安がないから、何の憂いもなく答えられる。
その非対称性が怖いのだ。
 
そういう意味で、もしかすると先のカップリング妄想は「復讐」なのかもしれない。
そうやって性的対象とされてきたことへの復讐。逆襲や意趣返しのような言葉ではなく、復讐。
男がやってきた女の消費への仕返し。
それを男性は嫌がる。「やめろ」「気持ち悪い」「変態」。
自分の嫌がることのくせに女にはやる(誰々ちゃんと誰々はお似合いやと思うで)のだから不思議だと思う。
 
性的対象とならない男は、性的客体とされたことを嬉しがる。
俺はゲイにモテるんだ、とは男性が好きな自慢の類型の一つだが、これもまた性的客体となったことへの嬉しさである。
その上で自分はゲイではないと宣言し、性的対象となり得ない男であることへの意識をより強くする。
 
さてさて、話が飛びに飛んだ。
僕が「かわいい」価値観を持つようになったのは(決して「完全に」その価値観を得たわけではないことを今さらながら付記しておく)、そのようにして自分が(極めて限定されたやり方とはいえ)消費されたことをもってして、男を消費することがあってもおかしくない、散々女性だけを過度に消費しておいて男性は消費できないものと頭から決めつけるのはおかしい、と思い至ったからだ。
消費されたことを否定し、男らしさを高める「男らしい」やり過ごし方ではなく、一歩踏み出してその先にある欲望を見つめなおすこと。
そうすると、友情という欲望であれば、そこに新たな位相が見つけられ、自分の欲望の奥行きを知ることになる。
男性らしい、何かを失ったり傷つけたり否定するのではない欲望がおぼろげながら見えてきた気がする。
鍵は「かわいい」にある、などといえばあまりにも古臭すぎて死にそうだが、かわいい消費は男性的欲望をひとまずは無効にしてくれる。
今、自己嫌悪が一つなくなろうとしているのではないかと僕はそこに期待する。
 
ここで話を対象となること、消費されることに移せば、その是非という問題があることは見逃せない。
たとえキャバ嬢として働くことにある種の依存性があろうと、その消費のされ方、仕組みに問題がないかと言えばあるわけだ。
女性のアイドルが10代から20代前半まで、圧倒的な支持を得てようといつの頃からか「おばさん」扱いされたり、結婚すること、「ママ」になることを求められる「ありふれた」流れに対して、かつて人気だったからいいじゃないか、と言えるのか。
力士がどれだけ活躍し、名を残そうと、その後その巨漢は彼の心臓に負担を与える。
人生をかけてそれをするよう強要するファンとは何なのか。
この問題はさすがにここでは解決できない。
ただそういった問題があることを忘れちゃいけない。
 
置いてけぼりにしていたけど、前半に想定していた、仕事中心の生活をせざるを得ない「若い男性」像は自己嫌悪の塊のようだ。
長時間労働し、お客や上司に奉仕する、過労によって肉体をいじめ続ける姿は、自分などどうでもいいという自己嫌悪の表れではないだろうか。
自己嫌悪まみれの消費が本当の欲望ではないことに気づけば、自己嫌悪から抜け出すと同時に、趣味に時間を割けないという経済的(とされている)事情であるこの自己嫌悪的労働スタイルからも解き放たれることができるはずだ。*5
定時に上がろう、時短で帰ろう、家事や育児に参加しよう、そして趣味に勤しもう。これらはすべて自己嫌悪から逃れなければ、号令や数値目標だけではどうにもならないと思う。
定時退社日がただの飲み会デーになるようなことが繰り返される。
そんなのはもう懲り懲りだ。
 
さて、ここまで長々書いて、はっきり言って疲れた。
みんなが何をして遊んでいるのか考えようと思ったら、仕事のことや生活のことまで考えてしまって、とっちらかった。
一つ、僕の考えたことをまとめるなら、「自己嫌悪」という言葉である。
男の自己嫌悪は、その暗さに気づかないほど暗く深い。
自己嫌悪と表し続けて、まるで男が被害者のようであると今さら思い至った。
あえて絶望を自らに対して加えるとすれば「男は少なくとも被害者ではない」(加害者であることに気づけていない)。

自己嫌悪を振り払い、失う楽しさではなく、得る楽しさが欲しい。
得るとは、誰かから奪うことではない。育て、実らせることだ。
自己嫌悪の反対は自分を好きになることではなく、世界を丸ごと肯定することだと思うから。
 
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 
あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 
このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 
マタイによる福音書7章14-20節

*1:反対に政治やビジネスの世界からは女性を締め出そうとする。たとえばクオータ制は逆差別、男性差別、能力のない女が上に立つなんておかしいと批判され一向に進む気配がない。先般閣議決定された女性活躍推進法案において数値目標を立てることが定められたが、指導的地位、管理職の比率のような数値でなくても構わなく、採用比率や勤続年数、残業時間など企業にとってうまいことやれる数字ならばなんでもいいそうだ。実情をたいして変えなさそうな仕組みである。自然に任せておけば指導的地位における女性比率は上がる、と能天気なことを言う人もいるが、もう面倒なのでいいや、終わり。

*2:高度プロフェッショナル制度なんて別に要らないと思う。現状違法状態なのでそれを合法にするだけの法案にしか思えない。

*3:調べればたくさん出てくる。たとえば→父親の育児・家事 | NPO法人ファザーリング・ジャパン。原因には長時間労働だけでなく、往復で2時間あるいはそれ以上かかる通勤時間も挙げられるだろうが、そもそも育児に参加しない、すべきでないという規範があるのではないか。

*4:一人暮らしの家事についての調査も調べれば出てくる。たとえばオウチーノ総研による調査→http://corporate.o-uccino.jp/wordpress2/wp-content/uploads/2013/11/pr20131128_shakaijinkaji.pdf。しかしながら一人暮らしの家事時間は見えにくい。

*5:日本では店員を怒鳴る、店員に偉そうにする客というのはある種ありふれた光景だけれど、これもまた仕事から離れた自分が何者か見出せない自己嫌悪からくるもののように思える。その結果「店員でない=客である」ということで自分を肯定する。この図式は「女でない=男である」という発想とまったく同じだ。こうした図式が過度なサービスを求める負のスパイラルを作り出しているように思う。時給800〜1000円や月20万円以下13万円とか15万円の仕事に対して、笑顔やおもてなしややる気が必要だとは僕は思わない。