diary

いつも考えていること

無知と無恥の間

そんなことも知らない
年を取るにつれ、「そんなこと知ってるんだね!」から「そんなことも知らないんだね…」と言われるようになってくる。
僕が小学四年生の頃、本を読むのに熱中して(実に熱中した。それまで図書館に行くのが怖かったのに、きっかけがあって、毎日本を読むようになった)、文語調というか、小説でしかお目にかかれないような言葉を使うと、母も父も「そんな言葉知ってるんだなあ」と褒めて、僕はそんなことを言われると恥ずかしいので「本に書いてあるし」とそっぽを向くのだった。

風か吹けば桶屋が儲かる
兄が大学三年生で就職活動をしている時、「なあ、風が吹けば桶屋が儲かる、ってなんか知ってる?」と聞いてきた。「博報堂の説明会で言っててんけど、ようわからんかってん。知らんよなあ」と。
それを横で聞いていた母親が「あんた…」と絶句し、「中学校3年間、高校3年間、大学4年間、一年100万円で…」などと絶望的な教育費の計算を始めたのでとりあえずそれを止めて、僕は兄に「風が吹いたら砂埃が舞うやろ、砂埃が待ったら目に入って目が見えない人が増えるやろ、目が見えない人は三味線弾く職業につくから三味線がようけ売れるやろ、三味線言うのは猫の皮使ってるから猫が減る、そしたらネズミが増える、ネズミは桶かじりよるから、桶があかんようなって桶屋が儲かる、ということわざやで」と合ってるっけと不安に思いつつも解説した。
「誰から聞いてん」と迷惑そうな顔で兄が言ったので、僕は
ドラえもんや…」
と答えた。
むかーしむかしの小学館の月刊誌「小学○年生」の付録のことだ。
そこに記載があったかどうかは定かじゃないけれどあれをきっかけにことわざや慣用句を覚えた。
あの付録、僕の部屋にあって、僕がずーっと読んでたから、兄は読んでなかったのか…。

総理大臣の名前が言えるか、魚を三枚におろせるか
もちろん僕は僕で知らないことがたくさんあって、ことわざでも知らないのはあるし、書けない漢字、読めない熟語、たくさんある。
そればかりか、日常における作法、たとえばビールのお酌の仕方とか飲み会の幹事の仕方とか締め方とか、はっきり言っていまだによく分かってないし分かろうともしてない。
というかお箸の持ち方を汚いと言われる。
さらには歴代の総理大臣の名前も徳川幕府の将軍の名前もアメリカの歴代大統領の名前もどれもちゃんと言えないし、教科を違えて英語であれば現在完了とか過去完了とかよく分かってない。
じゃあ大学で学んだこと、社会学部を出たのだからそれはどうかと言われたらそれだって心もとないですね。

最近の問題意識で言えば魚を3枚におろしたことがない。
いつだったか僕の父は僕に熱燗の作り方も知らない、だし巻き卵の作り方も知らない、釘の打ち方もなってない、と果たしてどうしてほしいのかよく分からない怒り方をしたことがあるが、確かに飲食店で働いたことのない僕にとって、そして母から料理を教わったこともあまりないし、できないことはできない。

できるようになりたい
総理の名前を覚える気はないし、お酌だのなんだの社会の常識を身につける気はさらさらないが、日常における料理なんていうのは何だかとても大切な気がするので、できないことをできないままにせず、できるようになりたいと思う。
案外魚料理できる人って多い気がしてて気軽に「ねー、できないよねー」みたいに共感を求めようとしたら「いや、やったことあるよ」とか平然と答えられそうだし。
魚のことは脇に置いておいても人って料理に関して言えば思い立ったら案外手の込んだことができる。食材とかお金かけちゃって、レシピ本読んで。
僕でさえラタトゥイユとか豚の角煮とか、そういやサングリアとかも思いたって作ったことある(クックパッドで調べて作った。そんな難しくないのだけど、どうやるんだっけ。もうずいぶん前のことで忘れた。継続して作ってないから、身についてないからダメだ)。
だからまあ日常的に魚を三枚におろしたいのだ。継続的に。ハンバーグやカレーと言った1ヶ月を回すようなレシピが自分の中にあって、その流れで2週間に1回は魚料理があるような感じ。季節とか感じちゃう感じ、生活を演出しちゃう感じ。

お墓のこと、名字のこと
他にも知らないなーと思うのは戸籍のこと。
我が家で少々話題になっているのがお墓のことで、お墓ってのはその名字やの家やのなんかなかなか一筋縄にはいかない問題だ。
分骨とかあるらしい、なんてなんかもうよう分からん。
そういう名字の話を考えてたら夫婦別姓が話題になってて、そうなったら子供の名字どうするんだろうと思うとちっとも知らないでいた。
どちらか一方に揃えるそうだ。へえー。ま、兄弟で名字違ってたら違和感あるもんなあ。

なんせ墓だ家だとうるさくて、死んだらおしまい、何にもなし、でいられないのが人間だ。
山崎ナオコーラの小説やエッセイで戸籍を抜ける話があったな、なんて思い出す。
家制度がなくなったなんて、なんだか幻想なんだなと思う。人はそういう連帯なく、ただ一人きりがたくさんいるってだけでは生きていけないのかもしれない。

相続のこと、渡る世間は鬼ばかり
墓のこととつながる問題に相続もある。
相続のことも難しくてよく分からない。
分からないことばかりで恥ずかしい。でも知らないものは知らない。とりあえず配偶者が半分、子供らでその半分を均等にする、んですよね?

相続のことと言えばこないだやってた「渡る世間は鬼ばかり」なんだけれども、それぞれの夫婦模様、現状への不満と「お金があれば…、あ!遺産があるじゃないか!」という欲望の描き方には感嘆の一言。
相続の話をすると言って、料亭「おかくら」に集まるわけだけれど、集まった人らは娘しかいないのでみんな名字違うんですよね。
でもおかくらに集まれば「家族」であると認識を一致して、物事を考えるわけで、しかも実際のところ相続の本質的なところで揉めちゃあなかった(五女の長子がわけわからんかっただけだ)。
ドラマの話だとはいえ、現実、親戚が寄り合えば名字が違うなんてのは別段普通のことだし、その上でなんというか緩やかに「親族である」つながりを共有するのだから、そう考えると夫婦別姓に反対する人らの家族の絆が失われる的な意見って具体的にどういうイメージなのかわからない。
こう、ライオンの家族が身をより合わせてる感じ?なんでライオンかはわからないけど、あんまり人間じゃ想像できなくて。

家族の絆とか
要は家族だから、同じ名字だからといっても四六時中ひっつき、寄り添うわけないのに、連帯感的な「強い言葉」で締め上げると、特に子供の側はいつか逃げたくなった時、少し離脱したい時、力を入れて引き裂いたり、決別しなきゃならなくなってしまう。
絆とか連帯感とか、確かに悪いものじゃないけど、もっと緩やかな「結びつき」くらいの言葉になって、抜けるべき時がきたら抜けられる、支える時、支えてほしい時に支え合える関係がいいんじゃないかなって思う。
「家族だから支える」のではなく、「支えたいから家族になった」みたいな気持ちがいるよなあということを思っている。
なんせ人と人の関係は言葉があって、それから作られるものだから、綺麗で美しいものもいいけれど、緩やかで、少しだらしない、けど絶対に切れない、なんていうか、物に例えるとなんだろう、わからないや。
自分の身を振り返ると、「家族は強い連帯感を持つべし」という感じが強い家庭で、だから墓がどう、などという問題も今あるわけだから。
なんていうか子どもという身分は、育てられて今があるから、実家に戻るとたとえ30歳だろうが50歳だろうが立場が子どもになってしまう。
経済的な独立とか関係なく「庇護される側」で居続けさせられる。
いかに一人一人が独立して(あるいは独立させて)、その上でなおも「結びつき」を保てるか、というのは、僕だけでなく、いろんなところで試される問題じゃないかなとか思う。

特に結論はない
特に結論はなく、世の中知らないことばかりだなあと思っただけなので、なんとなくつらつら書いてしまった。
知らないことすら知らないこともあるので、知ろうとしないとあかんなあと思うのでした。
ちなみに今日は揚げ物を習って、知らないことばかり。でも美味しいのができた。美味しかった。知ったら、覚える、のも必要。知ったってすぐ忘れちゃうもんなあ。