diary

いつも考えていること

そこにそうしてあるそのことそのもの

僕は相撲好きを公言しているのですが、先日職場の飲み会で唐突に「大関から平幕に落ちた力士を挙げよ」とクイズを投げかけられた。
知らね、と思って「どーすっかね」と適当に答えた。
雅山と出島、琴風くらいしか思いつかないやと頭の中で思いつつ、そのおじさんも別に正解を知っているわけでもないだろうし、まあ飲み会だし。
なんて、へらへらしてたら「この程度の質問に答えられないのに相撲が好きなんて言ってるのか」と強い口調で言われて、目が点になった。
「あ、すんません」と頭を下げておいたけど、なんだか一瞬険悪な空気になって、後輩の好角家が「雅山とか出島じゃないすかね」と答えてくれて、店員さんが飲み物の注文に来て、話は流れた。

おじさんに言われたことによって、僕が相撲好きでなくなるわけはないのだけれど、「こんなことも知らないのに〜好きとか言ってんのか」みたいなことって結構あるよなあと思ったのだ。

僕は本を読むのも好きだけど、これは相撲より公言しにくい。
なぜなら、本が好きと言うと「誰が好き?」とか「最近何読んだ」とか「何々は読んだのか」とか、妙に詰問される。
それで「保坂和志」とか「津村記久子」とか「町田康」とか「川上未映子」とか答えちゃうと、聞いたくせに「知らない」と言われたり、「サブカル笑」と嘲笑されたり、ろくなことがない。
あるいは「じゃあ何々は読んだ?」とか矢継ぎ早に知らない人とか本の名前を言われて答えられないのも怖いので、本が好きは地雷である。
あと、音楽が好きも地雷。こっちの方が本より百倍地雷。
映画好きも難しい。
なんだ、この悩み。
美術好きもツッコまれる時は半端ないし、美術好きなのに絵描けないの?とかどうでもいいことを言われるので言うの怠い。

そう、なんやねん、この悩み。
社会人になってからはあんまりこういう悩みもなかった気がする。先ほどのおじさんのように、勝ち誇る人もあまりいなかったからだろう。
人の趣味を否定しても、誰も得しないし、趣味の話をするのはどちらかといえば趣味が合う人を探すためで、合わない人を追及しても何も出てこない、なんてこと、会社にはいろんな人がいるから、みんな自然とそういうことを習得してコミュニケーションしている気がする。気がしてた、だけでした。
お酒が好きです、なんて言ったら最後、日本酒やワインの知識をべらべら話す人もいるわけだ。
「え?お酒好きなのに知らないの?飲んだことないの?何にも知らないじゃん!」
みたいな。はぁ?ていうスタンス、にならざるを得ない。

確かに学生の頃は、そういう「知識」が自分の価値を決める、くらいに思ってたけど、社会人になった今は自分は自分の好きなようにやります、って思えるようになってきてた。
きてたんです。大人な皆様のおかげで。

果たして、あのおじさんは、僕に何が言いたかったのだろう?
ただ単に僕のこと嫌いなだけならいいんだけど。

たぶんそうなんだろう。
僕のこと嫌いなだけだろう、マジできっと。子供か。
そりゃ、まあ、へらへらして「相撲あるんで帰りまーす」みたいなこと言ってる奴、上の世代から見れば想像を絶するおバカさん、ほとんど気狂いに近いんだろう。
実際、飲み会でも浮いてるし、二次会行かないし。こないだあった面談でも、上司はすごーく言葉を選んで「マイペースで、、、いいよね?」みたいな、評価しあぐねてる感じだし。

去年の流行語に「マウンティング」なんて言葉があったり、結構前から「格付け」的なことが人気だったり、まあ、あいつより俺が上、私が上、下みたいなことは、会社組織はそもそもそうだし、軍隊や士農工商とか、まあ人の序列は昔からある。猿でもある。
他人からどう思われてるか、自分をどう位置付けるかは、人生そのものだから、それを否定することはできないけど、序列みたいな固定された感覚で自分の居場所を安定させるのは楽な気がする。
自分の感覚に頼らないというか、なんというか、楽な気がする。

楽な割りにそのポジションをキープするのに無駄に労力がかかっている気もする。
そもそもその枠組みに入らない人がいたら無理やり入れようとする感じとか。
何かを固定化すると、考える時に省略できるから楽なのだけど、その分どこかで無理が必要になる。
たとえば「男は家事はしない」とか「会社員は会社に滅私奉公する」とかなんでもいいのだけど、固定してみる。
で、「俺は男だ」「俺は会社員だ」と自分の立場を固定化すると自ずから自分の振る舞うべき事柄が浮かび上がる。
楽だ。
でもたとえばその男が家事をしたい、しなくちゃならなくなっても、しちゃダメだし、滅私奉公したくないと思っても叶わない。
という無理が出る。

東京都現代美術館に菅木志雄の展示を見に行ったのですが、石がそこにそうあることそのものを問い直していて、作品を見ている間はこれはなんなんだろうか、と訝しく思っていたのだけれど、帰り道に街路樹を見た時に、ここに木のあることそのことの分からなさを言いたかったんだな、と分かった気がした。
とはいえ、それは分からなさを分かったということであって、木を見て木がそこにあることのそのことそのものは何も分からないでいる。
でも、これまでの僕は木がそこにあることそのことに何も思わず、木はそこにあるだけだった。
つまり、木がそこにあることに対して、自分の思考や感受性を省略していた。
けれど、木がそこにあることそのことの分からなさを感じるようになった、というのは自分の思考や感受性を再び発動させたわけだ(再び、であって新しく、でないことに注意)。
省略した方が道は歩きやすい。一々木がそこにあるそのことがどうこう、なんて考えなくていいから。
でも、省略せずに考えたり、感じることで、省略による無理を見つけたり、失ったものを確認したり、そういうことが必要だと思う。
道を歩くのに時間がかかっても、木が生えていることとか木の枝のくねり方とか木を見ている自分とかになんとなく感動する日があってもいい。

おじさんの怒りもこの「そのことそのもの」みたいなのに似ていて、自分のこととかいろいろ考えられたから、良かったなって思う。
なんでも、省略しすぎないこと。