Nu blog

いつも考えていること

人と向き合う恐怖-問題のあるレストランと残念な夫

この2週間はずっと相撲のことを考えっきりで、ブログのことをすっかり忘れていた。

休日ながら朝の6時前に起きて中日の天覧相撲を観れたこと、そして明日、友達らと14日目を観にいくこと。2日間にわたり国技館に行けることをとても嬉しく思う。
白鵬33回目の優勝。実にめでたい、新年である。
 
ああ、あっという間の15日間。3月の大阪場所が待ち遠しい。
 
 
平日は仕事があるので、帰宅後、録画した相撲を早送りしつつ、解説を聞きつつ、1時間程度かけて観る。
それが、なんと、10日目である20日、イスラム国が日本人2人を人質として2億ドルを要求したという緊急の重大ニュースが入り、相撲はEテレにまわされてしまった。
予約録画も臨機応変に追いかけてEテレに移行すればよいのだけれど、そんな高度な知能は持ち合わせておらず、21時まで残業した僕を待っていたのは、3時間弱のニュース映像だったのである。
ムカつく。残業に、最もムカつく。
 
 
 
さて、12日目、22日、相撲の合間、5時前のニュースでこれが流れた。
 
 
「ことばによるセクハラ」に関して、処分の妥当性をめぐり裁判が行われているそうだ。
処分の取り消しを求める男性は
「日常会話の範囲内の発言で、処分するのは不当だ」
と述べているらしい。
裁判するくらいのことだから、心底そう思っているんだろうし、「日常会話の範囲内」ってどんなことなのか。もし、たいしたことないなら、そりゃあ訴えるかもしれない。
と思ったら「1審は「職場の発言として常軌を逸する内容で処分は妥当だ」と判断」したそうだ。
常軌を逸する内容…?
日常会話…?
この埋まりそうもない溝、断絶をどう捉えれば良いのか理解に苦しむ。
結局そのニュースではどういう発言だったか明確に示されず、ぼくはもやもやしながら逸ノ城の入門後初の負け越しを悔しく思った。
 
次の日、つまり今日ニュースを調べると、問題の発言内容が出てきた。読売新聞である。
 
 
…常軌を逸してた。
どうして裁判をしたのか、処分が撤回されると思ったのか…。言ってないのならともかく、言ったことは認めてるんですよね…?
 
「夜の仕事とかせえへんの?」って何を言いたかったのだろう。それが日常会話なのだろうか。何を毎日話してるんだろう。
「セクハラ研修後に「あんなん言ってたら女の子としゃべられへんよなあ」」というのも、凄まじい。
まず、この「女の子」ってのが、すでに含意が多すぎて、ついていけない。
というのも、管理職の男性にとっての「女の子」というのは、前述の「夜の仕事」と結びつければ、水商売、風俗産業に従事する女性を指しているように思わざるを得ない。
あるいは、職場の女性についても、職場の人間である前に「女の子」=「自分を心地よくしてくれる存在」としてしか認識していないことをうかがわせるし、そもそも職場の女性に限らず、女性である時点で「子」、男性より劣った存在であることを無意識裡に前提としていることも感じられるし、セクハラ、いや、人権への意識の低さにクラクラする。
 
 
さてセクハラという問題から、真木よう子の「問題のあるレストラン」は気になるドラマだ。
男尊女卑まかり通る日本社会の実態を描いた第一話は、男性からすれば「そんな大袈裟な」と感じられるが、女性側からすれば、誇張でもなんでもない現実だろう。
 
こう言うと、いやいや、僕の会社で女性に「結婚しないの」なんて言う人いないよ、なんて呑気なことを言われそうだが、呑気で羨まし、くはない。
目の丸太に気づかないように、自分の耳に都合のいい耳栓がついてることに気がつかないでいる。
「何才?」だの「彼氏は?」だの「痩せたら綺麗」とか「いい女」とか「生意気」とか「感情的」とか、女性に対してそういう言葉を発した人がいない職場なんてない、と僕は言い切りたい。
 
男性に対してだってそうだ。
彼女はいるの?
彼女は何カップなの?
できちゃった結婚には気をつけろ。女は嘘をつく云々。
独身が家に早く帰りたいなんておかしい。
結婚して、ご飯が家にある幸せ。
あの子とあの子ならどっちと付き合える?
…。
セクハラとして訴えるつもりはない。
ただ絶望するだけ。そして自分がそんなことを言わないよう、振り返るだけ。
 
2話目は夫に貶められ、自分を失った専業主婦がメインの話。
夫にダメだダメだと言われ続け、自分は世間知らずで何もできない専業主婦だと思い込む臼田あさ美真木よう子
 
誰が、どんな時間が、どんな言葉が、どんな生活が、あなたにそう思わせたの?
 
と問うシーンは胸が震えた。
自信を失っている人に
「あなたはもっと自信を持ちなさい」
なんてことを言うことに意味はない。
映画「グッド・ウィル・ハンティング」の名台詞のようにまずは「あなたは間違っていない」と言うこと。
このことを専業主婦に対して示したこのドラマはもう名作だと思う。
 
次のシーンで臼田あさ美演じる女性の夫が、自分の母親が自分の父親や自分に尽くしてくれたことを美談として語るシーンでは、はっきり言って死にたくなった。
恵まれてしまった日本の男性の多くは(語弊のある表現かもしれないが…)、自分達が女によって尽くされることを当然と思いすぎだ。
それはそっくりそのまま自らの身に降りかかる言葉である。
僕は決して母親を美化したくない。まるで、白人が黒人奴隷のいた過去を振り返って、彼らはよく尽くしてくれたなどと言うようなものだ。この比喩は、母親を傷つけるだろうか…。
 
 
「残念な夫」というドラマもまた気づかぬ男への宣戦布告だ。
子供を育てるというと、ともすれば人はそれを「子育て」と位置付けるが、子供も人間であることを考えれば、それは「人間関係」である。
向き合うことの恐怖は、全ての人に等しく与えられた恐怖だ。
なぜ、男性だけその恐怖から目をそらし、仕事という現実逃避を選べるのか。
 
両ドラマは女性のためのドラマのように見えるが、翻って男性のためのドラマである。
いかにして、自分と向き合い、他者と向き合うか。
他者と向き合えないでいるのはティーンだけの特権、いやティーンだけに許された未熟さだ。なんて、僕だって二十代後半になり、やっと気づいたことだけど。