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いつも考えていること

愛情のある手料理は美味いのか

園子温監督の「冷たい熱帯魚」という映画があります。
でんでんの怪演が日本アカデミー賞を受賞し、話題となりました。
 
その冒頭、神楽坂恵扮する社本妙子がスーパーの棚から冷凍食品やレンジでチンするお米をカゴに入れまくります。
そのスピード感、投げやり感は観客に何か「異常」を示します。
特にネタバレでもないので、事情を説明すると、妙子は吹越満扮する社本信行の後妻で、信行の亡くなった前妻の娘である美津子とうまくいってません。
美津子とうまくいってないことが影響しているのかは謎ですが、妙子の晩御飯作りは全て、電子レンジでチン、終わり、です。
チンしたものについて、例えばお米はお茶碗に、コロッケは大きなお皿に、というように移し替えるので、見栄えだけ見れば、何らか作ったように見えなくもありません。
3人家族がそろっても会話のない食卓で、信行は箸を動かしながら時折「うん」と美味しいのか何なのか、意味はないのか、頷きます。
そして、美津子のケータイが鳴り、どうやら彼氏からの電話で、ご飯を途中にして家を出て行ってしまいます。
家族が機能不全に陥っていることを冒頭一発で示す、秀逸な演出です。
 
 
映画も終盤に差し掛かり、様々な展開の末、信行がキレます。
怒りを露わにしながら妙子に「飯を作れ!」と命令します。
妙子は恐怖の中、冷凍庫から冷凍食品を出し、バリバリと袋を開けます(僕はここで笑ってしまいました)。
美津子をテーブルにつかせ、冒頭と同じような食卓のシーンがまた映されます。
信行は、その食事がうまいのか、キレたとはいえ家族を統治できたからか、満足気な表情で、「うん」と頷きます。
妙子はそんな信行を怪訝な顔でうかがいます。
そしてまた美津子のケータイが鳴り、彼氏のところへ行こうと家を出ようとしますが、それを信行が引き止め…。
 
 
さて、本題は「愛情のある手料理は美味いのか」です。
どうしてこれが気になったのかというと、先ほど説明した「冷たい熱帯魚」の冒頭シーンに加え、どうやら僕が独身男性ということがばれているようでブログを見ているとこんな広告が表示されるからです。

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あと、僕は1年前に母が亡くなったのですが、残された父が、上の広告のようなことを言うわけです。
「一人で食べるご飯は餌だ」と父は言います。かなり寂しがってるんだなと思いつつ、僕は一人暮らししていて、毎日一人でご飯を食べているけれど、あまりそんなこと感じたことないけどなあ、とも思いながら。
 
 
あれ?と思ったわけです。
冷たい熱帯魚」の社本信行、広告に象徴されるような独身男性、妻に先立たれた男性、彼らは一体何を求めているんだろう?
手料理?
どうしてそんなことを求めているのだろう。
表に現れた欲求は、社会の「常識」と通底しています。
僕の目の前に立ち現れた常識について、順を追って一つ一つ解きほぐしていきたいと思います。僕にも、結論はまだ見えていません。
 
 

①何を求めているのか。

様々な焦点がありますが、本稿では「食事」にのみ焦点を絞って考えていきます。
 
社本信行、独身男性、妻に先立たれた男性(まどろっこしい言い方で、やもめとも言いますが、本稿ではあえてこの言い方をしてます)、彼らは食事を作りますか?
ー 作りません。
(なんだが変な英語の教科書みたいですが)。
まず初めの答えとして、彼らは食事を「作ってもらう」ことを求めています。
自分で、自分のため、あるいは誰かのために作ることは求めていません。
誰かに作ってもらいたい、と希求しています。
そして二つ目。食事を一人で食べたいとは思っていません。
その「作ってくれた誰か」と食べたいと考えています。
要は、妻がいて、彼女にご飯を作って、一緒に食べてほしいわけです。
キョトンとしていけません。マジです。
本当に「寂しさ」を感じているのです。
その気持ちは誰にも否定できません。
 
 
なぜ彼らは自分で作らず、人に作ってもらうことを前提にしているのか、という問題に関しては、後に触れます。
ともかく、彼らは「妻に食事を用意して待っていてほしい」のです。
「金麦」のCMに出てくる檀れい、をイメージすればいいかもしれません。
あるいは、「鏡月」の石原さとみでしょうか。
「男が庇護したくなる女性像」「男に従属する女性像」を打ち出すあれらのCMは、見る度に「どうしてこんなマーケティングが現存しているのか…」と心のHPが減ります。
あの金麦のCM、「死んだ夫をまだ生きていると思い込んでいる女性」として見ると、なんとかやり過ごせます。
 

②なぜ妻なのか。

「誰かと」「人の作った料理」を毎日食べたいなら、友達と牛丼屋でも行けばいいんじゃないのかしらと思うのですが、「ご飯は外食、一人ぼっち」とあるように、外食は「誰かに作ってもらった」食事ではなく、たとえ誰か友達と食べても、「一人ぼっち」、それはノーカウントです。
「家」、「妻」でなければならない、という確固たる意志が感じられます。
妻でなくとも、それに準ずる彼女、愛人でも可、と思われますが、必要とされているのは「自分を思ってくれている」こと、自分のために何かをしてくれる人を求めています。
 
用意された食事がたとえ一流シェフのものでも、ダメなのです。そこに金銭が発生する=自分のためではない。そういう「美味い」食事は求めていないのです。
 
「妻が自分のために用意してくれた愛情のある料理を家で食べる」、彼らの求めているものをより具体的にするとこうなります。
ちなみに妻に先立たれた男性は、息子の妻が「余ったんで」と言って、肉じゃがでもおでんでもいいから持ってきてくれたら嬉しい、と言っていました。「してほしい、って言ってるわけじゃなくて、普通する」という旨のことも言っていて、僕はどう反応すれば良いかわかりません。兄の妻、僕にとって義姉は子育ても忙しいし、2人目がお腹の中にいてつわりもあるし、もしやらなければならないとしても、そういったことをできるとは思えないし、なぜしなければならないのかわかりません。
この息子の妻は義理の父の面倒を見るのか、ということも後で整理します。
 
とにかく、「自分を思ってくれる人は自分のために料理を作ってくれるもの」という「常識」が今やっと見えてきました。
 

③愛情のある料理とは何か。

冷たい熱帯魚」の社本妙子は、「妻が用意」という要件は満たしていますが、外食ではありませんが自分で調理したとは言い難い冷凍食品によるご飯を作っています。
そしてそのことが機能不全の象徴のようになっています。
広告の独身男性はおにぎりを手にしています。
コンビニのおにぎりはダメなのです。
妻に先立たれた男性はR 1/Fでは味気ないとおっしゃっております。
味気ないわけないだろうが、と言いたいのですが、ぐっとこらえて。
 
つまり、それらの料理には「愛情がない」こととされています。
 
×=冷凍食品、コンビニ弁当、オリジン弁当吉野家等牛丼チェーン、日高屋等定食屋、スーパーやデパ地下のお惣菜、息子等「男」の作る料理
○=妻、彼女、愛人、娘、息子の嫁、母等「女」の手料理
 
×に「男の作る料理」を入れました。
これまた妻に先立たれた男性の言葉が出典となりますが「息子に料理とか世話をしてもらうのは無理」「野郎と一緒に食べても美味しくない」とのことです。
料理に限らず「世話」をするのは女の仕事、と考えているらしく、女手がなくて不便というようなことを言います。「しようと思えば掃除も洗濯も料理もできるけど、女がやる方がいい」という発想は、一体どこからきているのか…。「俺の世話はお前ら(息子2人)ではできない」って言われても、なぜ世話をしなくちゃならないのか…。自分で出来るならやればいいじゃないか…。
 
 
筋を戻して、では「愛情のなくなった妻」の作る料理は不味いのでしょうか。
「愛情のある手料理は美味い」という命題が正であるならば、対偶は「不味い料理は愛情がない」となります。
つまり、夫が「不味い」と感じたらその料理には愛情がありません!
なんだよ、それ。と思いますが、つまり!不味い料理を作るってことは、自分のために料理を上手くなろうという気がない=愛情がないってことになるわけです。
おお…、自分で理屈つけておいて、絶句してしまいました…。なんなんだ、この強烈な上から目線は…。
 
ここまで、漠然と使っていた「愛情」の正体が見えてきた気がします。
つまり、どれだけ自分のために努力してくれるか、という女の尽くし度を愛情と呼んでいるのではないでしょうか。
…?
それって愛情なんでしょうか。男が女を使っているだけで、しかも愛情という言葉を良いように使っているだけでは…。
男性から女性には何か愛情のお返しはないのでしょうか…?
男は仕事で女を養っているからそれで充分…?
女を家に閉じ込めて、美味い料理が作れなければ愛情がないと断罪しながら、女には社会性がないと外に逃げ出す手段を封じるって、たちの悪い軟禁じゃなかろうかと思うのですが…。
はっ、だから、檀れいは気が狂ったのか…!…、なんだかちょっと気分が悪くなってきたので、次に進みます。
 
 

④なぜ自分で作らないのか。

女の作る料理でなければ食べられない、女の作った料理以外は餌だ、というのは一体どういう思想なのでしょうか。
なぜ自分で作ろうとしないのでしょうか。
先ほど見えてきた「愛情」の正体のとおり、自分は愛情を受ける側、女は愛情を注ぐ側という明確な差があると考えているから、だと考えられます。
 
どこからこの根拠不明の自信、非対称的な思想がやってきているのでしょうか。
 
ちなみに、この非対称的な思想は、男に「人を品評する資格」があると思い込ませています。
「あの女はかわいい」「ブスだ」という程度ではなく、「付き合える」「抱ける」というわけわからんことも平気で言います。
「友人の評価はイマイチでも/She so cute」って、友人の評価はどうでもいい気がしますが、あの優男っぽいミスチルですらその価値観なのです。
 
あの「彼女がいます」って言ったら「写真を見せろ」となる流れは何なのでしょうか。
しかも嫌がりながらも結局嬉しそうに写真を見せて、周囲は「かわいい」や「微妙」や「AV女優のなんやらに似ている」とか散々品評して、しまいには胸の大きさや性体験についてまで話す人がいます。
親戚の女性についても「彼女は綺麗だから家事ができなくてもいい」とか「へちゃのくせに気も効かない」とか。
 
男のことも「あいつは仕事ができない」という程度から「あの仕事じゃ年収いくらくらいだろう」とか「あの大学出身にしてはよくやってる」とか、そんなことが平気で話されていて、胃が痛くなります。
 
なんでそんな上から目線なの…。
ちなみに、僕は親戚で一番年下なので、
「痩せていて頼りない」→「飲み会が苦手らしい」→「仕事できないと思われるぞ」→「出世できへんぞ」→「まあ、まだ若いんやから取り返せる」
という具合にいろいろ言われます。
もっと食べて、太らなあかんぞ、というのにはゴリラの社会にでも迷い込んだ気がしてしまいます。
しかも、励ましたと思われてるのだから、ビビりますね(愚痴)。
 
そう言えば若手社会学者も合唱コンクールに出てる中学生を品評して、個性がどうとか言い訳してたなあ。
あれもナチュラルに「非対称的な思想」が身についちゃってるからなんだと思います。
 

⑤思想の根源

しかし、それが「社会の常識」なのです。
「当たり前」に行われていることであって、そこに疑念を挟むことはないわけです。
 
女の子は結婚したら仕事辞めるんじゃないの?
とか
女の子は料理ができるものでしょ?
とか
女の子は子供が好きでしょ?
とか。
 
そして、
男が結婚して仕事辞めるなんで聞いたことない
男は料理なんてできなくていい
男は育休とらない
のです。
さらに言えば、
男は結婚したからといって妻に合わせて仕事を辞めてはいけない
男が料理できるのは変
だし
男は育休をとってはいけない
のです。
 
なぜ男が主で女が従なのか。
なぜ男がこんな上から目線で品評してくるのか。
この「社会の常識」ってなんなんだ。
言葉が、ちゃんとあります。なければ、ただもやもやと「変だなあ」と思ってやり過ごすしかなかったことに、言葉があるから、今からなんとなります。
 
ホモソーシャルとは「性的でない男同士の絆」、ホモフォビアは「同性愛嫌悪」、ミソジニーは「女性嫌悪」と言い換えられます(上野千鶴子「女ぎらい」参照)。
社会はまず、この三点セットを基盤に成り立っています。主体は男であり、男同士が連帯し、女性を客体化させることと男同士の性的関係を発生させない抑圧とで、より強固に維持されています。
その具体的な制度が「家父長制」として、表れています。
父から息子へ、上司から部下へ、男同士の連帯の中で社会が営まれ、母や妻や娘は「世話をする人」として扱われ阻害される存在でしかありません。
 
つまり、男は女を自分の持ち物だと思っています。マジです。
たぶん、男はそれを否定します。
でも、そうとしか考えられないことを平気でしています。
母は父が他の男の家から連れてきた女であり、妻は自分が他の男から奪った女であり、娘はいずれ他の男に渡す女なのです。
だから、父のものである母を敬い、自分の女である妻を侮蔑し、他人のものとなる娘が「キズもの」にならないよう守るのです。
それどころか、女とは「家族」に限りません。
他人の彼女だろうと、通りすがりの女だろうと、芸能人だろうと、容赦なく品評します。
なぜ容赦なく品評できるのかと言うと、女は男の持ち物だからです。
 
 
「家父長」みたいな言葉を聞くと、なんだか「カメハメハ大王」みたいなのが、何百人もいる部族を率いて、みたいな大昔の統治体系や昭和の怖いお父さんなんかを想像するかもしれませんが、現代にも、というか近代以降成立した家族は家父長制を内包し、再生産しようとしています。
父がそうであるように、息子達も同じように妻を、娘を所有し、息子に家を継がせます。
何も家を継がせると言っても、家業のことではありません。
家、苗字、墓、そんな形での「相続」が、今もあります。
 
 
男女に限らず、家父長制は、親が子を所有している形になります。
親は子を守り、金をかけ育て、「大人」(息子であれば自分の女を連れてくること、娘であれば他の男のところへ行くこと)にします。
親は子に時間やお金をかけ大人にしたことに対し、その恩を子に返してもらおうとします。
娘なら娘自身に、息子の場合、その妻に自分の世話をさせることとしてあらわれます。
形だけ抜き出すと気が狂ってるな、という気がします。
でも、生まれた子が娘なら「老後の世話をしてもらえる」と言い、息子が結婚したらまたしても「世話してもらえる」と、平然と言い放つのです。
怖すぎる。
怖すぎますが、もっと怖いのは自分が自分の子供に同じことを言ってしまわないか、の方が怖い。
だって、今から子供を育てようとすると、めちゃくちゃお金がかかります。
 
 
この状況で、家父長制を抜け出そうとすると、子供にお金をかけたけど、何の見返りもない、ことになってしまいます。
育った子供は老いた自分たちを慰めてくれはしません。
子育てとはなんだったのか、と思う人も出てくるでしょう。一人で大きくなったような顔しやがって、と読売新聞や朝日新聞の人生相談やYahoo知恵袋、OKWEBなんかに怨嗟の念が撒き散らされるわけです。
でも、それが今の親世代の気持ちなのです。
 
また愚痴りますが、いや、、でもさ、社会保険料払ってるじゃないですか、って思います。それで勘弁してくれよ、と勝手なことかもしれませんが、思います。
ほら、年金制度って、家庭内で親の面倒を見る家制度がなくなったからできたんじゃなかったでしたっけ。
なんなの?まだ家制度あるの?あったんだ…、あ、そう…。
疲れた…。
 
 

⑥どうすればよいのか

さて、最後に、いかにしてこの家父長制から抜け出すのか。
 
前項の最後で、子供にお金をかける、親の面倒を見る、という循環とその崩壊について少し書きました。
このことも、なんだか当たり前のようになっていますが、考えてみるととても不思議なことです。
どうして、個人が子供を育てる責任を引き受けているのか。
なんだか不思議な気がします。
責任と引き換えの子供の私的所有(押し付けられたか、望んだかは別として)、と言えませんか。
 
社会で子供を育てる制度がないから、子供の私的所有が発生し、ある子はお金持ちの親だから塾に行って高学歴、ある子は貧乏人の子供だから塾に行けず云々。
社会で子供を育てる、というのは簡単に言えることではありませんが、子供の教育が生まれたところに依拠する現状の歪みは明らかなものです。
だからこそ教育は公的なものとして現在扱われており、政治に左右されないようにされているはずです。
親がこの教育に「金をかけた」と胸を張らなくてもいい社会の成立は、一つの前提なんじゃないでしょうか。
といっても、僕は中高大と私学を出ました。
その自分の受けた教育をある種否定しても、公的な教育が充実することを望み、社会で子供を育て、子供は社会にその還元をすることで、間接的に親世代へのお返しできる社会が、僕は良いです。
 
なんていうか、さらに言えば、働いて稼ぐ給料が「子ども」と「親」のために、しかも自己の裁量において使うことを求められるのが、僕は嫌に思うわけです。
あいつはいくら子供にお金をかけた、親をすごい老人ホームに入れた、なんだかんだとこのホモソーシャルにおいてはそれをも品評の対象とされ、そこに金をかけない男は「甲斐性なし」「吝嗇」「身勝手」として、弾き出されるのです。
それなら、社会として合意を形成して、これこれこういう形で教育及び医療・介護をやっていきましょうね、として税金の運営をする方がよっぽど合理的だし、手取り=可処分所得でわかりやすいし、自分の周囲で「不幸」が頻発しても、自分の蓄えとは別になんとかできるようになります。
子供を学校に、老人や病人を病院に押し込めてしまえ、と言いたいわけではありません。そんなディストピアを描いているのではなく、開かれた学校や病院を想像すればいい(そんなものがないから想像できないだけ)のです。
 
そんな大きな話をしてもあまり意味がありませんが、元が違っているので、大元の対処法を考えざるを得ません。
 
むしろ、今すでに、僕は「お金をかけられた子供」として親に何か返さなければならない、しかし返したくない、というジレンマに陥っており、そこに答えはありません。
ここまで書いてやっと思い当たりました。
本稿は僕という「ホモソーシャルホモフォビアミソジニー」を経た人間の懺悔なんだと思います。
男子校というばりばりのホモソーシャルの中で育ち(しかも私学だから家父長制の恩恵を享受し)、その中で培われた思想の薄汚いこと。
そして社会に出て、またしても男同士の連帯を目の当たりにし、そこにコミットしてしまったこと。
さらに家庭において、父と兄のあまりに「常識的」な考え方に気づいたのは、母の死後でした。
母の死により、僕は父や兄のいる「男社会」への招待状を受け取り、今戸惑っているのだと思います(白々しく今更「招待状」を受け取ったなんて言うのは実際は欺瞞ですが…)。
「良い家族を持った幸せな母であった」というストーリーに押し込められそうな母は、この「ホモソーシャル」の犠牲者なんじゃないか。そしてその加害に僕も加担していた、と思うのです。
なんだってできたはずの母を家庭に閉じ込め、子育てを一手に引き受け(兄にも僕にも何の家事もさせなかった。僕たちもしようとも思わなかった)、祖父母や叔母の死を看取り、そして自身が病気となり、闘病の末死んだ結果が残された男3人の絆を形成する材料に使われてるなんて、悲しすぎる*1
そこに加担したくない。きっと、兄も加担したくないはずだ。今きっと、何か悩んでいるに違いない。
 
はっきりと、僕は悔いています。許されないと、自分自身に憤りを感じています。
万引き犯が万引きGメンになるように、空き巣強盗が空き巣強盗の専門家となるように、僕もまたそうなりたいとすら思います。
 
でもまた再犯するかもしれない。というか、言ってる側から、この記事からすでに、何か間違いを犯しているかもしれない。間違っているところは教えてください。
僕は自分が信用ならない。だって結局毎日男社会で過ごし、声を上げることなくうじうじしているのだから。
もっと考えて、自分自身の「男性性」に向き合って、何かを変えないと、これから先もずっと一生罪を犯し続ける。
 
そして、今の一番の間違いは、僕は父や兄にこのことを直接伝えられていないことです。どうしたって、上手く伝えられない。
 
 
 
さて結局、「愛情のある手料理」は美味いのでしょうか。
きっと愛情のある手料理は美味いんでしょう。
あなただけのための料理。
僕は、それはもう食べたくない。かつて、母の「愛情のある手料理」を食べた僕。
 
犠牲のない愛情、それは誰も見たことがないから想像もできないものですが、それを見つけたい。それはどんなものなのだろう。
 
 
男に(なるべく)生まれついた者にとっては、それ(引用者注=ミソジニーを超える方法、身体の他者化を止めること)は「男でなくなる」恐怖に打ち克つことを意味する。こんな課題を達成することが男に可能かどうかはわからない。そうなったとき、男の欲望がどうなるかもわからない。(p.270)
フェミニズムは女にとって自分自身と和解する道だった。男にとっても自分自身と和解する道がないわけではなかろう。それは女性と同じく、「自己嫌悪」と闘うことのはずだ。そしてその道を示すのは、もはや女の役割ではない。(p.272)

上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」より。

 


小沢健二 - 天使たちのシーン [Live ver.] - YouTube

 

*1:「家に閉じ込め」という表現は2回目だが、主婦を望み、主婦になる人もいる(主夫しかり)。そういう人からすれば、腹の立つ表現だと思う。しかし、それがたくさんのチョイスの中から選ばれた「主婦」なら、羨ましいことだけれど、たとえば母は、そうならざるを得なかったが故に、つまり選ぶことなく主婦となった。あるいは、途中働いていることもあったが、家計の補助以上に働くことは許されず、誰も言葉にすることはなかったが暗黙裡に「家事」は母の役割であった。これを「家に閉じ込め」られたと表現することに戸惑いはあるけれど、そうだったのだと思い切って言いたい。