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いつも考えていること

It's not your faultー電通の労災から

電通に入社して1年目の女性が自殺し、それが月100時間を超える超勤による労災として認定された。

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問題は長時間労働だけでなく、パワハラやセクハラもあるようだが、真相は分からない。

 

ぼくはこの国の労働は大雑把に2つに分かれると感じている

「定額使い放題の正規社員 or 使い捨て可能の非正規社員」の2種類だ。

 

企業の倫理からすれば人件費はコストに過ぎない。

それは動かしやすいコストなのか、固定的なコストなのか? 固定的なコストであれば、より効率的な「使い方」はできないか? 法律との兼ね合いは?

そういった観点から、「働き方」は規定されているに過ぎない。

まさか企業が誰か一人の人生を背負い込むことはない。

 

しかし、にもかかわらず、「世間」は正規社員でなければ将来の見通しが立たず、非正規社員をまるで努力の足りなかった落伍者のように扱うことがある。

同じような仕事でも賃金は異なるし、昇給がなくとも、そのことは是とされている。

正規社員であれば結婚している人も多いが、非正規社員ではその割合ががくんと減る。雇用形態が、結婚、そしてその先の出産に影響を与えている。

 

自分の親を想像すれば、もしもぼくが期間の決まった雇用であったり、派遣社員だったら、今頃何を言われていただろう?

「フラフラして」

「ちゃんとした職に就け」

「いつまでもそのままでいいと思うな」

そんな小言を聞くことになっていたのではないか?

すでに就職活動を始めた大学三年生の時、いや、そのもっと前からそんなようなことを言われていたとも思う。つまり、「ちゃんとした職に就け」というようなことを。

両親には「ちゃんとした職」という感覚があり、非正規雇用は「下」なのだった。

 

都内のPR会社に勤めて8年になる契約社員の男性(32)は、28歳の頃、結婚したいと思った派遣社員の女性がいた。プロポーズも受け入れてもらい、2人で頑張って働こうと決めたが、彼女の両親は婚約相手が正社員ではないと知った途端、「娘が苦労するのが目に見えている」と反対した。

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数少ないパイの正規社員を奪い合いが起きているとも言える。

これは企業からすれば好都合で、正規社員たちは必死の思いでつかんだ藁を離さないから、「定額使い放題」の労働力として使いやすい。どれだけ蹴ろうと踏もうと、耐えてくれる。

正規社員を使い倒し、経営に合わせて非正規社員を増やしたり、切り捨てたり。

やり方さえ間違えなければ、人件費は思い通りだ。

 

人生の一部分であるはずの仕事に人生すべてを捧げ、「私」が壊れてしまう人がいる。それは一部の「ブラック企業」だけの問題ではない。誰にでもおとずれる問題として、働き方について考えていきたい。

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本来、働き方に「正規」も「非正規」もないはずだ。

ここまでなんの定義もなく「正規」「非正規」と書いてきたが、その中身は多種多様だ。

アルバイトもパートタイマーも派遣社員契約社員非正規雇用と言われる。
望んでなった人もいれば、望んでいない雇用形態に甘んじている人もいるだろう。
十把一絡げには言えないことだ。

 

社会全体で労働者が過度に使われることもなく、簡単に使い捨てられることもなく、かつ流動性の高い状況を構築するのが、すぐ思いつく単純な理想だと思う。

ぼくだけの最上級の理想を言えば、労働のない世界なのだけれど、働きたい人というのも尊重しないといけない。

ぼくはどっちかというとハードワーカーです。労働時間も、おそらく平均よりは長いでしょう。でも、それでもぼくは不幸ではありません。長時間労働をしていますが、不幸ではないのです。

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 ベンチャー企業などでは、上の人ほど365日休みなく働いていて相当な過重労働なのですが、自らベンチャー企業へ身を投じた人が倒れてしまう話はあまり聞きません。

 なぜなら多くの場合、彼または彼女が自分の意志でそうしているからです。裁量権が大きいから、ストレスをほとんど感じていないのです。だから長時間労働も耐えられる。

setsuyaku.ceo

 

とはいえ、長時間労働の定義が今であれば終電や徹夜であるから、その感覚がまず是正されて、そもそも8時間働くことがすでに「長時間」なのだと認識されるようになれば、良いのではないだろうか。

一日10時間も12時間も働き、休みもないことに対しては、どれだけ働きたい人にも規制をかけ、例外中の例外にしないとそれに引きずられるように、現状が維持されてしまう。

「働く」ことの価値が下がればいいのに、とぼくは思っているのだ。これまでの人類の歴史は「働く」ことに価値を置かざるをえなかったけど、その先を求めてもいいんじゃないか。

 

さて、少なくとも働き方の多様性を認められる社会が構築できたのであれば、正規社員だから未来がある、非正規社員に未来はない、というような二分した見方はまずなくなるだろう。

そうすれば会社にしがみつく生き方もなくなり、必要な時に必要なだけ会社に労働力を提供するような、真に自由な働き方、生き方も出てくる。自分の限界を試すように(自己コントロール感を失わないことを前提に)働くこともできる。

そうなれば、全ての人が自分をこき使う会社にしがみつく必要がなくなり、自然、長時間労働パワハラ、セクハラによる被害も、なくなり…。

なんていうのは理想として、電通における労災が、本質的に発生しないためにはどうすべきか。

 

ぼくは、「関わらないこと」がその答えではないかと思う。君子危うきに近寄らず。
入る企業を間違わない、間違っていれば速やかに退出する。とても難しいことだけれど。

ツイッターで見かけた意見にはこういうのもあった。

なんらかの精神的な病を発病してべてるの家に集まって来ている人たちは、たぶん、必死になって「降りたくない、降りてはいけない」と階段にしがみついていた人たちなのである。こんなに社会が昇れ昇れと言っている階段を、昇れない自分は情けない、昇らなければいけない、だから昇るのだ。降りてはダメだと、相当にねばってきたのだ。 

runday.exblog.jp

 

しかし、死にたいと思うなら、何かおかしい。

「グッド・ウィル・ハンティング」という映画のセリフに「君のせいじゃないよ」=It's not your faultというのがある。

誰かに傷つけられた時、自分の非を探してしまうけれど、社会の価値観として誰かが、またはそばにいる誰かが、あるいは心の底の自分自身から、この言葉をかけてあげてほしい。

それだけでも救われる時がある。ぼくはミスしたら、反省もするが「ぼくのせいばかりではない」と自分を落ち着かせて精神の平衡を保つ。そうしないと、やっぱり辛い時はある。

 

ブラックな会社をなくす、日本全体に蔓延るその体質を改善することは前提として、それでもブラックじゃないと利潤が上げられないと言うなら、そうありたい人だけでやってもらいたい。

それを望まない他人を巻き込まないでほしい。だから、「ここはブラックです」とちゃんと表明してほしい、なんて思う。

そうすれば、巻き込まれたくない私たちは、そうした企業を反社会的勢力のように扱い、利潤の上がらない状態を作り出せるのだけれど。

 

この事件を知った時、学生の頃、さっさと就職して「ケリ」をつけたいと思ったことを思い出した。

先の見えない自分の人生に見通しをつけてしまいたいせいぜいこの程度、と決めつけて安心してしまいたかった。

就職すれば、定年までクビにならないようダラダラと働き、そこそこに生きてそこそこに死ぬ。まあ、なんの具体的なイメージのない、妄想だ。

とにかくぼくは、その頃「意思」も「判断」も「選択」ももう要らない気がしていた。そんななんやかやが面倒だった。

会社に入ってみれば、そんなオートマティックな日々が訪れることはなく、毎日、大きいことから小さなことまで、意思を表示し、判断、選択を下していかなくちゃならない。

むしろ、学生になら許される「保留」という選択肢がなく、過去の自分の決断を呪ったり、誉めたりするようなうんざりする日々が続く。

つまりは学生の自分はそうした現実の有り様に直面していないだけの夢想家だった。

チャップリンが戯画的に表した歯車の表現やマルクスの言う「人間疎外」のようなイメージにとらわれて、「普通」を理解できていなかった。

そんなふわふわした人間が、なんとか就職できたのは、ひとえに就職活動というこの日本社会の謎システム、金太郎飴システムのおかげだろう。

このシステムに、なぜか上手く乗っかれたために、今はぼんやりサラリーマンをやれている。

私は会社員という立場は「都合が良く、楽だ」と感じている。なぜなら、保険や税金などの手続き周りのことは代行してくれるし、有給休暇もあるし、会社の業績が良ければ、個人として大した成果を上げていなくてもボーナスが出るからだ。

会社よりも仕事よりも逃げられないのは、自分である。自分自身と向き合えなかった結果として全人格労働につながる、これこそが他人事にしてはいけない問題ではないだろうか。

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考えることをやめて、身を委ねることで「楽をしたい」。

「使われてしまう人」は、そう思う気持ちを見透かされているのかもしれない。

 

どこで見たのか忘れたけど、働き方について語っている人の言葉に「会社に雇われるのではなく、自分という個人商店を構える」みたいなのがあって感心したことがある。

たとえサラリーマンであっても、「個人商店」を構えて、会社が倒産しようが、その「商店」は守れるように、生きていきたい。自分が倒れると「商店」が終わると思えば、自然、無茶な労働もするべきではないと判断して、自分の裁量でシャッターを下ろせる。

そして、たとえ「個人商店」であっても1人きりの孤独ではない。いついかなるときも、共にいてくれる存在はあるのだろうと、ぼくは思ったりする。

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も

どこへ続くかまだ分からぬ道でも

きっとそこにあなたがいる

It's a lonely road

But I'm not alone

そんな気分

宇多田ヒカル「道」(fantôme)