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いつも考えていること

町田康『ホサナ』

ホサナ

ホサナ

 

町田康『ホサナ』を読み終えた。 

一般的に、小説を愉快に読んでいる姿は、大抵において「気持ち悪い」と評されるものである。

しかめっ面で読んでいると賢いねー、なんて褒められたりもするが、ゲラゲラ笑って読んでいると「頭おかしいんちゃうか」となる。ましてや、このように分厚い小説を読みながらであれば、なおさらしかめっ面をすべき、深淵なる思索を巡らし、額と眉間に皺を寄せ、ときおりため息の一つ吐いて「やれやれ」なんて言うべき、みたいな期待、ない?

そんな被害妄想は置いておいて。

筋などない、と言って差し支えないだろう。その点、名作『告白』と比べれば、読みにくい。『告白』は最後の一言へと収斂される筋があって、物語の愉しみがある。『パンク侍、斬られて候』にしても同じこと。荒ぶる言葉の波の中にも一筋の流れがあるから、身を任せられる安心感。

ということは『ホサナ』はあかんのか?というとそうではない。なぜなら、なら本来的に小説は筋が大切なのか?という話。筋は一つの技、方法であって読ませるための必須条件ではない。むしろ、筋がないのに読ませるのであれば、それってすごいんじゃないですか、違いますか、どっちが偉いとかそういう話ではありませんが。

日本くるぶし、ひょっとこ、愛犬家、バーベキュー、地下邪都、毒虫といった単語の中毒性。

協会をめぐるヘゲモニー争いや栄光に入る等物語の本筋そのものではないエピソードのようなお話。

そういった積み重ねが壮大な一冊の本となることに驚愕する。

町田康の小説にはたいてい主人公が惚れる美しい女性が出てくる。今回で言えば草子、萱子のこと。パンク侍のロン、告白の縫。

主人公の男は勝手に惚れて、なんとかものにしようとする。見目が悪い女のことはやたらに貶める。

たとえば告白の縫なら、主人公が勝手に理想の女と思い込んでいたので、「己の意志や欲望を持たず、ただ他を計量するためだけに存在」しているなどと思い込み、殺すその時に「人の意志を試すために神仏より使わされたものではないことを悟った」「単なる淫乱であったことを悟った」などと幻滅することになる。

彼女たちにも自分と同じように中身・人格がある、と思っていないことに問題がある。町田康は男の女に対する決めつけを暴露し、その思い込みをきっかけとして様々なことを瓦解させる。この流れは毎度おもしろいし、身につまされる。

過去作品との対照で言うならば、毒虫。毒虫と言ったら、「けものがれ、俺らの猿と」(『屈辱ポンチ』)にも出てきた。虻と蜂の合いの子、という描写で気持ち悪かった。現実、ヒアリでもこれだけ騒動になるくらいだから、人間の毒を持った虫に対する嫌悪感というのは計り知れないものがある。

これといった感想はない。ただ、1ヶ月近くかけてゆっくりと読めて楽しかった。物語の中を歩く感覚、一緒にわーわー連れ去られる感覚、があった。

今は『ギケイキ』を読み始めたのですが、これは全4巻になる予定らしい。マジかよ。