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いつも考えていること

ミシェル・ウエルベックについて

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2015年に話題となった『服従』は、「フランスにイスラム政権が誕生したら」というイフを、「もはや衰退し、力を失っているにもかかわらず、フランスを代表しているつもりの鼻持ちならないインテリ層」に突きつけた作品だったが、私=日本の読者としては、「資本主義の爛熟に伴い、宗教的倫理が内部から崩壊しかかっているため、アイデンティティーの喪失を恐れるあまり、イスラム教という外的な脅威=福音によりかかるヨーロッパ」と、「そもそも宗教なき日本」が、鏡に映し出された相似形のように思われ、というのも日本では「イスラム教という外的な脅威=福音」がなくとも、現在進行形で「資本主義の爛熟及びアイデンティティーの喪失」に対して、右翼政権によるアイデンティティーの回復を試みているのだから、ウエルベックが描くまでもなく滑稽な国だ、とつくづく思う。

この長い一文以上にお伝えすることもないのだが、簡単に注釈すれば、イスラム政権or右翼政権という(インテリ層にとっての)究極の2択に対し、フランスをシミュレーションすると(あるいは2002年のシラク対ル・ペンにおいて)、大揺れに揺れるが、かたや日本は、すでに常に安定して何事もなく右翼政権を選ぶマヌケぶりを発揮しているし、これからもそうだろう。とはいえ、まあ、アメリカだって似たような2択できちんとマヌケな方に転んでいるから、フランスで現実にそのような2択が示されたら実際には右翼に転ぶ方が現実的かもしれない。

いずれに転んだとしても、結末はたぶん同じで、女性への教育の制限や扶養手当の充実による女性の就業率の低下、あるいは一夫多妻の許容など、イスラム教というバックボーンがなくとも、右翼政権も出生率の増加、少子高齢化対策、伝統的家族の復権を理由に似たようなことをやるだろうが、なんと日本を見てみれば、笑ってしまうことに、地道に右翼政権がそれらを達成しているのだから、おもしろいが、笑えない。

と、いうのも、家族手当に該当する扶養控除もなくならず、そもそも女性への教育に対する意識は低く、ないのは一夫多妻くらいで、これも、よほど少子高齢化が進めば許容するのではないか(「伝統的に」お妾さんの存在は許容されていた、などと勿体ぶった理由をつけて)。

服従

服従

 

と、いうような、すでに起こりつつある素敵なディストピアを描ききれるのは、ミシェル・ウエルベックの怖さであり、おもしろさであり、この先少なくとも20年くらいは重要な作家であろうと思う。

ウエルベックの何が危険かって、主人公たちが喪失しかけているアイデンティティーなどとセンチメンタルにまとめられるものが、身も蓋もなく書くのならただの性欲でしかないことで、万が一今権力を握っているおっさんどもが、自分たちがなぜ権力にしがみつき、自分の気づかぬうちに男尊女卑思想を言葉や態度の端々から垂れ流しているのか、その理由が性欲にあることに気づいてしまったら、そして、その欲望に忠実になろうものなら、今ならまだ漏れ出てしまう性欲程度の被害(それでも迷惑極まりないが)で済んでいることが、1、2年の間にウエルベックの書が現実を書き当てたものになるだろうから、ウエルベックなどという下品な作家は、できたら市井の人々の笑いのタネ程度に収まっていてほしい。

ところで、私がウエルベックの作品で今のところ一番好きなのは『プラットフォーム』で、この作品の醜さは『服従』の比ではない。

冴えない中産階級のおっさんが、自らをインテリと捉えたいのだけれど、行き場のない性欲に悶え、アジアに売春しに行ったら、同じようにニヒリズムに陥った女性といい感じになった上に、めちゃくちゃエロくて、嬉しいな、と思っていたら、テロにあって彼女は死んじゃって自分は生き残りました悲劇、という話。

酷い話だ。二葉亭四迷の『浮雲』や田山花袋の『蒲団』などといった日本の近代小説に近しいものを感じるし、それは村上春樹などの現代の小説家とも繋がり、つまるところ、これまでのメインストリームな文学が「男」と「性欲」と「虚栄心」で構成されていることが赤裸々になる。特にこの「虚栄心」が厄介で、自称インテリ、ホワイトカラーのおっさんが「俺がモテないのはおかしい。女は見る目がなさすぎる」という「非モテ」的苛立ちを抱えていて、『服従』では「大学の教授なら妻を3人娶れますよ、それだけの価値が知的階級のあなたにはありますよ」みたいなことになるし、『プラットフォーム』ではエロいパートナーの獲得に繋がるし、考えてみればそれってとっても村上春樹的。正直なところ、「SPA!」を読んでる時と同じものが「文学」の基盤にあることに気づいてしまうと、虚無感に打ちのめされる。「文学」を高尚にすることで女にモテて、性欲を満足させよう! が近代文学者たちの裏テーマであって、差し詰め現代ならば「お笑い芸人」や「ミュージシャン」などがそれだろう。

それにしても『プラットフォーム』に書かれたイスラム原理主義によるテロのシーンは、アメリカ同時多発テロがその刊行直後に起こったことで一躍予言として捉えられたそうだが、今読んでみれば『服従』刊行の年、2015年のパリ同時多発テロを想起させる描写で、圧巻だ。

 

ある島の可能性』は千年後の未来と現代とが捉えられた不思議な小説で、ネオ・ヒューマンなる存在が出てくるSF設定だが、主人公は『プラットフォーム』や『服従』と同じ、冴えない中年、自称インテリ、エロい女に巡り合っても満たされない性欲、と同じストーリーじゃないか。で、人類はほぼいなくなり、ネオ・ヒューマンが残される、というあたりは『素粒子』と同じ。全部、同じストーリーか。笑える。

『地図と領土』『闘争領域の拡大』『ランサローテ島』は未読。これから読みますが、たぶん同じお話でしょう。

と、いうわけで、饒舌にウエルベックを語った上で、総括すれば「まったくオススメしません」。良く言えば、近代男性的自我を意識し、克服しようとするための反・教科書かもしれないが、近代男性的自我の自傷的自慰として用いられることが主流である方が(その程度の存在感である方が(ウエルベックの存在感が増すことがない方が))、良い。